対象/媒介としての光

光とはその現れにおいて、大別して2つの仕方を持つ。すなわち、対象としての現れと媒介としての現れである。前者は、相対的な暗さから見出される光の現れであり、後者は普く光のある世界において「ものが見える」ことにおける媒介としての光の現れである。前者では光は、暗さ、暗がりをその相対的な知覚的効果において世界を剔抉する。それを記述するに、いわゆる「視界の開け」であり、知覚の復活が感ぜられる。文学的表現でも「光が射す」とは肯定的な意味を持ちうるものであるが、しかし、その作用自体がたとえば“希望”そのものであることに注目せねばならない。光そのものが希望として言い表されることもあろうが、しかしそれは希望という感情をわれわれが光に対して抱くのである。あるいは、具体的方法がそこで見出されるというわけでもなく、光はただ、我々の感情を溢れさせるものであり、我々の感情が、願い、希求が呼び起こす知覚的幻視であるとも言える。つまり光そのものは何ら具体的なものをもつものではなく、ある種の感情をなかだつものであり、感情の代理表象でしかないのである。また、この代理表象という見方について注目すべきなのは、仮にそこで感情が前後で伴われるものであった以上、その光は実際の物理的明るさとは別種のものなのである。知覚は非常に曖昧なものである。われわれが望んだものを見せ、或いは触れさせ、匂わせる。その中で最も優勢にしてその微妙な差異までが否応なしに感ぜられる視覚において、色合いといった微妙な点において感情が介在するの無理からざることである。そこで我々の「見え」を担うのは“明るさ”であり、「見えるようになりたい」という願望が、その権利の取り戻しの望み、復権への意志が光という形で我々の知覚を変えるのである。しかし、これはやはり通常の精神を持った者の場合のみであるのかもしれない。シュレーバーは光の軍勢、神が自身に敵するものと捉え、昇天する魂は輝く天国の入口を恐れ、不安に感じることをも考えておかねばならない。これは原初的な現れなのだろうか?我と他者がが決然と分たれる世界に生きる我々が光の画然たる作用を良しとするのは、はたして我々人間にとって二次的なものなのだろうか?……すでに光の、対象としての現れと媒介としての現れが混同されようとしている。相対化された視界を話題にするとき、光は媒介であると同時に対象なのだろうか…あえてここで対象としての光について語ろう。しかし“光を見出す”という体験には、“光によって見出す”という知覚的前提が厳然として存在している。もはや成熟した身体を持つ我々が純粋に、闇が光によって分たれるところを見出すのは不可能なのかもしれない。ここでは、光は知覚される世界を、あるいは知覚を劈く――聖書で初めに神が「光あれ」と命じたように――ものであると同時に、それは我々の渾然とした情動をも分つ契機となったのだ、とのみ述べておく。
ここで媒介としての現れをもつ光について述べることができるだろうか?この体験は我々にとってあまりにありふれたものであるように思われてならない。「よって見る」という体験は、光の原初的な現れが背景へと退き、隠れてしまった結果であるのかもしれない。「よって見る」という体験は、光と闇が相対的に混じり合い、そのことすらも忘れてしまった状態でもある。光という享受を、享受としてもたらされたことを忘れてしまった状態であり、つまり言い換えれば享受を純粋に体験している状態だと言えるのかもしれない。そこには光というものを意識することもなく、――もっとも、意識の世界において諸事物はすでに分かたれているのであるが――言述されることもない。つまり、その本質へ意識が向かう余地が介在しないのである。そこでは、「見えること」ではなく、「見えるもの」にしか意識は向かわない。「こと」という体験、背景そのものへの言及長い世界、それが我々の生きる世界である、とも言える。神経症的な「もの」、現れそのものへ向かう姿勢、前提とされる「こと」に言及されることのない世界とは、我々の根底がその限りにおいて揺るがされることのない安定した状態が永遠に続く。あらゆるものが背景として隠され、我々の基盤がゆるやかに、しかし安定していることが、我々を我々たらしめる要件なのかもしれない。その前提たる「こと」が揺るがされ、不安定に陥るとき、それまで一定の不文律であったものは一挙に明文化され、その様態を不当にも問い質されることになるだろう。*1

*1:本段の参考図書;木村敏『時間と自己』中公新書 1982、渡辺哲夫『死と狂気』筑摩書房 1991より