布置だとか何とか

いまだに、というか「布置」という言葉に向かおうとする人がいる。深層心理学をかじったことのある者ならば、一度は耳にする言葉である。この言葉が検索されるのを見るたびに、私は妙な苛立ちを覚える。なぜこんな言葉が気になる?これに気を向けていても、布置的な出来事など、あなたの前に現れることはないのだ、と。


もはや、この言葉が「奇跡」「幽霊」「神」と同じくらいの実体のない、しかし何か意味ありげなものとして現れていることは想像に難くない。恐らくこの言葉は、学問という辛うじて現実の言葉で語ろうとしている場、あるいは自身の憧れにも似た感情を持って見つめる場において用いられているために、魅力的に見えるのだろう、か。そして、何か予言めいた意味合いを持って語られ、人間の心に関する一部としてみなされているがために。……学問など!!我々がそこに抱く感情的なものは、その恐らくにして余りに地を這いずるような現実の姿ではなく、大きな翼をもった天使のように、煌びやかな幻想を作り出しているのだろうか。もし、そうであるのならば、そこで現れる言葉の全ては水泡に戻さねばならない。積んでは崩し、崩しては積む、その繰り返しによって辛うじて残るものさえも突き崩して、なおも積み続けねばならない。私が「分からないものは分からない」と言おうとするのは、むしろ「何も分からない」と言ってしまってよいのかもしれない。分かった気になっている方が、よほど恐ろしい。眼前の出来事に目をそらすな。それを呑み込まんと、しかし決定的な他者であることを忘れず、見つめ続けろ。おかしくなっても構わない。見えるもの、そんなものは見ようとせずとも、糸くずのように自分の懐へ勝手に転がり込んでくる。見えぬものは、見えるはずがないのだ。「これって布置かも」そう思い、心躍った瞬間に、それは何でもないものへと戻ってしまう。いや、そもそも何でもないものなのだ。何でもないものが、何かになる、それは、勝手な個人の妄想、思い込みによって捏ね上げられるものではない。勝手なことばかりまくしたてるその口をふさぎ、ただ見つめ続けていれば、万に一、いや億が一で現れるかもしれない。起きることを当然と思ってはならない。起きないことの方があまりにも多いのだ。


しかし、それでもなお、「これこそ布置だ」と言う人はいる。それはもはや信仰である。人間という計り知れない可能性と、自身を超えたものに対する信仰。布置を信じるのならば、あなたはこの世に神がいることを真正面から信じられるのか?神秘めいた学問用語を吐くだけならば、そこら凡百の、信仰にも到りえない狂信者とまるで変わりはしない。


また同じこと書いて…馬鹿の一つ覚え、老害の繰り言。