怒るから融け合うへ

そんなに怒らなくったっていいじゃないか。まったくなぜにこんなにも、心の狭いのが多いのか。なにかケチをつけられるかと思うその瞬間、顔が引きつり警戒レベルがカッと上る。馬鹿にされたっていいじゃねえか。コケにされたっていいじゃねえか。そんないちいち目くじら立てて、何が一体楽しいのか。楽しいことを邪魔される、本気で思っているんだろう。気持ちは分かるが、しかし態度でそりゃいけないよ。黙ってこらえて「もっとして」、その言葉がなぜ言えないか。責められることは美徳である。尻を突き出せば相手が勝手に自分のものになる。相手は自分のものだと思っているが、まったくもって誤解である。相手は望んで自分に与えようとしているのだ。快楽を、自分の身を捧げて。他者が他者であり続けること、それは人間の宿命でもあるが、しかし他者が自分と同一になろうとする瞬間、その瞬間だけ、私たちは神に近付くのだ。融け合う瞬間。SとMの関係を、本職の人は語ってくれた。SはM抜きには存在できない。Mは自分だけでも愉しめる。SがMを支配しているのではなく、MがSに居場所を与えている。単なる詭弁、逆説ではない。あなたが侵入するとき、私はあなたの宿主となる。いやもっと昔から、私はあなたの「母」であった。これが宗教的理想の一端である。福音者の最後にもそう描かれたのを、多くの若者は覚えているだろう。恍惚に身悶え、カラダは形を喪い、そして地へと堕ちていく。そしてわたしは世界となるのだ。あなたたちが背にするその世界へと。