『盲者の記憶』引用

ところで、「見えざるもの」のこの「幻(ヴィジョン)」から出発して、そのすぐ後に、天使は書くことを命ずる。感謝するためには、すなわち恩寵を返済するためには、出来事の記憶を書き込まなくてはならない。(……)語りの記録文書、書き記された物語は感謝し恩寵を返済する、この物語に取材したあらゆる素描がのちにそうするように。書物から素描へという書画上(グラフィック)の系譜関係においては、問題は、あるがままをいうこと、見たもの(知覚あるいは素描)を記述したり確認することであるよりは、視覚を超えて法を見つめ守ること〔obserser〕、真理を負債と整合させること、贈与と欠如に、<支払われるべきもの>、「ねばならない」〔il fault〕の欠落に、同時に感謝し恩寵を返済することである。それが「見ねばならない」の「ねばならない」であれ、あるいは、見えるものの過度の豊かさと欠乏〔déffaillance〕を、過多と過少を、過剰と破綻〔faillite〕を同時に共示する「見るべく残っている」の「ねばならない」であれ。素描用尖筆を、絵筆を、鉛筆を、あるいはメスを導くのは、ある命令にして戒律の敬意にみちた観察にして遵守であり、認識以前の再認にして感謝であり、見る〔voir〕以前に受け取る〔recevoir〕ことに対する感謝であり、知以前の祝福である。


『盲者の記憶 自画像およびその他の廃墟』ジャック・デリダ,鵜飼哲みすず書房,p36-37

見えることと記述すること。それを人の言葉にして表象することは、捉え損ないを必然とする。しかしこの捉え損ないは必ずしも問題ではなく、「なぜそうするのか」に焦点があてられる。を遵守しなければならないからだ。これはつまり、知覚を表現するにあたって、人は自身が持つ“ことば”しか用い得ない、ということ、あるいはこれが理由なのだろうか。これまでの「光」の捉え損ないと同じように、そうであるがために志向性とも呼ばれるようなアプローチを注視する方法、法=ルールを遵守する、ということなのか。そうではない。見ること自体が恩寵である。見るという恩寵が素描(表象?)を導く。