「暗黙知」

こちらが当たり前に思っていることを、さも貴重で新しい発見のように指摘しているのを見ると、なんとも言えない気分になる。たとえば「配慮」に関して、その人が実際に望む「裏の気持ち」を理解し、それにそって言葉掛けをすることが“我々には重要なことだ”と主張されたとする。確かにそれは重要なことではある。しかし、自明と思い過ぎているこちらは、そう主張する本人に偏った関心と虚栄心を邪推してしまい、何も言う気にならなくなってしまう。だが、その人にとっては極めて重要な「発見」であり、「伝えるべきこと」なのだ、ということに改めて留意する必要がある。
マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』を最近買ったのだが、知人はこの本に同様のコメントをしていた。「そんなこと知ってるよ、ってことを自慢げに説明してる」。――「暗黙知」‘tacit knowledge'、確かにわざわざ説明を加える必要のないものにも思われる。しかし、こちらが自明と思っていることを敢えて口に上す人々に対して、兎も角もその視点の偏りを批判しようとするのは性急ではないだろうか。彼の文章に立ち戻ってみよう。彼は、ブハーリンが純粋科学を「階級社会の病的兆候」と断じたことに言及する。

自立的な科学的思考の存在自体を認めないこうした主張が、よりにもよって社会主義の理論家の口から出たことに、私は愕然とした。そもそも社会主義理論は、科学的必然性を言い立てることで、途方もない説得力を誇っていたはずではないか……(中略)……そのとき私は次のように思った。私たちの文明全体は極端な批判的明晰性と強烈な道義心の奏でる不協和音に満たされており、この両者の組み合わせが、まなじりを決した近代の諸革命を生み、同時に、革命運動の外部では、近代人の苦悩に満ちた自己懐疑をも生み出してきたのだ。そこで私は、こうした情況を作り出している原因を探求してやろう、と決心したのである。
(『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫、p16-17)

彼の背景には「スターリン時代のソビエトイデオロギーへのつまずき」がある。彼は科学者として、「不協和音」や「自己嫌疑」の原因の探求という哲学的な思考へと向かった――嫌味な言い方をすれば、それこそ「社会主義の科学者だからそんな当然のことを」云々、ともなるだろう。だが、彼の論をたどるに当たってまず必要なのは、まさにその背景や目的である。“なぜそのように考えるに至ったのか”、これが多くの同じ結論に到る言説の各々の独自性であり、後に続く論の展開さえもこれを反映したものとなりうる。もし仮に、一見他の論者と変わりない論展開をしていたとしても、それは一つのケース・スタディとしても用いられる価値はあるだろうし、何よりも一つのテーマに対する数限りない言説の累積が、後年何かしら新しい視点を示唆するという可能性があるとも思われる。ナイーブで保守的な物言いだとは思うが、大抵われわれは長い時間と膨大な論議の果てにしか先に進み得ないのだ。一旦、すべてを反故にしてしまうような物言いは控えよう。そのうえで彼の書をできる限り丁寧に読み進めていこう。