再開(リハビリ)

試験前だったので雑文書きは控えていたが、徹夜したあたりから調子が悪い。思考が狭まるような感じ。まったくこまったもので、自己批判的な印象からしかものを考えられなくなっている。たとえば「君から体力を取ったら何が残る」云々、中二病がどうとか、社会性がどうとか、そんなものが漂っては相対化されず、印象としてシミのように離れない。よくない傾向である…と思ったが、意外と以前からそんなかたちで私はここでぶつくさ言っていたのだ、なんてことはないのだ。
そう、相対化で思い出したのだが、アラン・ソーカルとジャック・ブリクモンが記した「『知』の欺瞞」を最近購入した。まだあまり読んでいないのだが、なるほど物事を理解する時に、例えば批判の対象としてよく見かけるリュス・イリガライはフェミニズムの観点から物事を指弾しているのだけど、いかんせん彼女自身の読み間違いというか、切り込み方のズレをよく指摘されている。物理学で理解されている領域を精神分析社会学など人文学的な方向から包括的に批判を加えようとするものの、用語の理解不足による事態の誤解を生じさせているらしい。あるいはジャック・デリダジル・ドゥルーズジャック・ラカンなどそうそうたる面子も挙げられていて、自然科学の専門用語の誤用がまた指摘されている。しかもそれは単なる誤用にとどまらない、というかそれが彼らの方法論に大きく影響している…ようだ。まだ読んでいない(「読んでいない」、このせりふを何度使っただろう。失笑ものだ)。
物事の理解という、ものすごーく大雑把な見方でとりあえず感想を言うことしかできないのだけど、人文学か自然科学いずれか一方だけで説明できると考えることこそ視野の狭い話はない、という感じ。私が衰えて何もできなくなる前に、もう少し欲しいものを手に入れておかねばならない。まだ足りないのだ。単なる相対化ではなく、それがより先に進めることを可能とするような仕方を身につけていかないと、物事は硬直化し、乾いた鼻糞のようにどこかにへばりついては嫌がられるだけのものになってしまう。時間が足りないのだ。