「めしくうな」、と。

別に何も食わなくていい生命体になりたい。道徳的にではなく、食べることがうっとうしいというか、なんでこんなことでわずらわされるのかと思うとやりきれない。食べ物に金を使うのも理解しづらい。いずれ排出されるものだと分かっていながら、なぜ金を使う。こういう話題の行きつく先は、つまり生きている意味なんてあるのかという驚くべき愚問を発することになるので気をつけないといけない。ええ言われたんですよ「ちょっおまえ生きることに意味があると思ってんのか」って。ないっすわ。そんなものないです。恥ずかしかったね。こんなこと口走るなんてどうかしている。つまりこれはフロイト先生の定義する反動形成と言われるものでもあって、意味ある人生を送りたいと無意識で願っている自分が……ああ!もう本当に墓穴があれば入りたい。いいんですよもう。多少飯食わなくたってやっていけます。年取ってからがつらいよってあんた、そこまでして生きていようとは思えないんだよ。ねえ飯の味がしないんだよね。ちょっと正確でないので訂正。味は分かるんだわ。旨いかどうかも一応わかる。しかし「ああおいしかった/まずかった」だのという感情的な所につながらないのだ。餌食っているようにしか思えない。栄養が取れるのならゴミでもかまわない。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の第2弾の冒頭で、ドクがタイムマシンの燃料に何を使ったか覚えているだろう?低燃費が目的なのではないけども、それくらいで十分なんですよ。やれどこの店の何の料理を食べるために金をかけたとか、自慢するようなことか?それはソープランドで極上の姉ちゃんを買うのに大枚はたいたって言ってんのと同じですよ。下世話というか、低劣でおぞましい。それでいいってんならそれでもいいんだ。時にそれは自らの恥部をさらして周囲に笑いを差し向ける道具になりえるし。しかしそれがステータスシンボルのようにってのはなあ…周りに年配の人がいると、どうしてもそんな話題が多くて、やりきれないのだ。つっても気にしているだけまだ健康なんだよね。砂を噛んでいても平然と何も感じなくなるような感覚があれば、どんなに地平線が遠くに臨めることだろう。そう浦沢直樹の『MONSTER』の最後、ヨハンとテンマの間に広がる荒涼とした不毛の地。考えられる目の前の快楽を一つ残らず排除したとき、その先に残るのは何なのだろうか。ただ、先――にあるかもしれない光景を、見開かれた両眼の前に広がる光景をただ見つめ、そのあとに何があるのか。