遠く離れた私たちへ

それが何を意味しているのか、今では分からない。私が今まで見てきたもの、感じたもの、全て自分の中に残って、私のものになっているのだけど、あまりにも身近すぎて、それは「私」というものとしてここに……たぶんここにあるのが、あの……何だったのだろう……。誰が私にくれたのだっけ。そう、あの人だ。あのゆるいパーマをかけた、いや、長髪を後ろでくくった人だったか。笑顔を見ると私はいつも嬉しくなって、怒った顔を見ると胸のあたりが締め付けられるようになって、でも彼の顔さえも私は思い出すことができないのだ。彼は私にくれた。それはいつのまにか、私のものになっていて、…ああ、私はそれが何だったのかさえも初めから分からなかったのだ。あの人は、私にくれた。それは……それは一体なんだったのだろう。この指は、どこを差しているのだろう。私は、何を気にとめていたのだろうか。この体が私ひとりでできているのではなく、色々な人たちのくれたものでできていくものだ、ということは知っている。昔の私の友人たちに再会したら、私は私だとわかってもらえるだろうか。私は、私の姿をしているのだけど、明らかに私そのものではないのだ。10年以上前からくらべて、私は変わった。すべてが私のものとなっていった。そして。それは、私のものとして存在している。私ではない私が、ここにいて、それはもう私の手を離れて動いている。朝は明るく、私を夢の中から呼び起こす。この二つの眼は光を受け入れ、このからだは私の知らない動きを始める。私は誰だったのか。今となっては分からない。ただ、このまま何度も繰り返す朝の光の中で、私は私ではなくなっていくのだ。*1

*1:余談というか、直前に読んだ、ねむようこの「パンドラ」は印象的だった。それに昨日から私の頭の中で繰り返し流れる“Norwegian Wood”。あの階段を駆け上る時に流れるメロディ。"She told me she worked in the morning/ She started to laugh/ I told her I didn't and crawled off to sleep in the bath" これらが一日をかけて私の中でめぐり、感傷的なものが女性的で少女的な性の部分とともに引き起こされる。初めの一文が今日の文章の始まりだった。それぞれが特に際立った意味を持つのでもなく、ただ、文法的な解釈に加え、乖離した感覚の行き着く先はどこにあるのか、と書こうとし、いつものように書くことに神経を注ぐとひどい眠気に襲われ、あくびのような終わり方で今日も眼をつむろうと思っている。しかしなぜだろう、ここ最近文章を書くことに取りつかれてしまっているようだ。何か書かないと、というこの感覚は、私にとって初めてではないものの、半年間かけ続けてきたストレスはここに妙な形で現れ出ているのかもしれない。もちろん本当の原因など誰も知りはしない。ただ、なぜか書き続けているのだ。これでは本もまともに読めない。感傷的に自身を眺めることも、論理的な言葉で武装するのも、もう飽きた。ただ、私はここでもっとも遠い方法で肉体を晒して、その行き着く先を見定めようとしているだけだ。だから「人生設計」(などという噴飯ものの思考回路)も持ち合わせていないし、まして「目的」「目標」なども定めていない。定めて何になるというのか。私は自分が正気でいる限り、どのような形であれ言葉をどこかに書きつける。ここでブログを作っているのは、紙に書きつけるのでは間に合わないのに対して、これが書くことも振り返ってみることも容易な手段として重宝しているからだ。同じことを言い続けるのも、私はこの混乱した頭を何とかして整理し、誰でもいい、しかし混乱を混乱として私の知らない「あなた」に映しこもうと企図しているのかもしれない。注意しておいてほうがいいかもしれない。これから先、繰り返し日は昇り、私は同じ行為によって、しかしさらに狂気を正気のままでギリギリまで追い求めようとするだろう。それは文章を書くことよりも大切なことだが、しかし文章はいつのまにかまた私の所に戻ってくるだろう。 9/23 2:06記す