アブラクサス

最近の関心事は映画『アブラクサスの祭』(原作・玄侑宗久)。観てから頭をチラつくセリフが多い。


「私が言葉になるんです」
その前日に別の本で同じことが書かれていたのを読んだ。言葉を私が発するのではなく。私が私という形さえも取らなくなる、ということなのか。“メッセージそのものになる”なんてどうにも青臭い言葉で、ただそういう意味ではなく、よく聞け、全然まとまらないまま書いているのだからどこで脱線するか分からないから、言葉そのものさえも何事かを表すのに不十分だとしたら、仮の資材に過ぎないそれら言葉になるということは、たとえば「私が私であること」であるとか、「私である意味」なども投げ捨てることと等しくなるのではないか。そう、先日も使ったモザイクの例え。決して完成することのないもの。それでも言葉となる、というのだろうか。
そういえば『METAL GEAR SOLID PEACE WALKER』でも似たことを言っていた。平和が幻想だと分かっていながら平和の唄を歌い続けることしかできない、と。センチメンタルな物言いをしても仕方ない。そうでもしないとやりきれない、と言ってくれたほうがなんぼか救われる。


「ナム・アブラクサス
神でも悪魔でもある存在をアブラクサスというそうだ。ヘルマン・ヘッセが『デミアン』でアブラクサスを挙げ、彼もまたユングとかかわりがあったというからそこに繋がりがあるのだろう。諸星大二郎が『汝、神になれ鬼になれ』という作品を作っている(読んでいないけど)。人によってはこれは、「『善』能ではなく『全』能の神とはこのことだ」というのだろう。その力強さたるやハンパない印象がある。ただそうではなく、「何者でもない」ということを映画では強調していた。「あるがまま」ではなく「ないがまま」、と。『善』としての「あるがまま」ではなく、個人主義に毒された者の自己正当化の弁の「あるがまま」としてわたしは受け取った。そんなもの、なくてよい。「個人の幸せあってこその人生だろ!」だって?自分のケツ拭いてろよ。神でも悪魔という背反の存在に同時にあるということは、どちらでもあると同時に、どちらでもないということなのだ。なくしてしまいたい、と日々思う。


ここのところ気温が上がってきて、だんだんと私はおかしくなっていきそうになる。精神を病んだ方が春に悪化するのが分かる気がする。