つぶやくことの生産性

僕は迷った挙句これを手に取りました。
Yoshitaka In Its Right Place(仮)

気付かないうちに時間は過ぎている。私はいつの間にか想像もしていなかった年齢に達していて、メディアには私よりも年若い人々が数多く活躍する姿がある。これを見て、そんなはずではなかった、といつものような言葉を吐くのもいいが、そこまで昂ぶるには私も枯れ過ぎている。しかし相変わらず、10余年前からほとんど成長もしていない。あえて言えば、おのれの能の無さを笑って済ませられることができるようになったのを成長と呼ぼうか。
わたしは上の言葉に惹きつけられた。日記の冒頭、端的にその人の状況を説明しきってしまうような言葉。小説にも現れるような簡明な表現。読者に多くのことを想像させるような言葉。一瞬にして引き込まれるような表現。年若き人たち。自己主張をあえて抑え、内面へと向かおうとする静かな言葉。ことばは生まれてゆく。何度も何度も使い古された言葉は、特定の個人の文脈に乗り、新しい姿を装い、その人の世界を豊かに語る。クリシェではない。使い古された言葉は新たに生まれ変わる。何度でも。つまりクリシェとは、その人自身の創造行為そのものへの否定的な評価なのだ。クリシェは無い、と言うこともできるだろう。そう判断しなければよいことだから。自らを表現するために言葉を選ぶ。その行為は常に生産的である。