「夜戦と永遠」引用

取りあえずやっと第一部のラカンを読んだ。凄く面白い部分もあり、付箋を貼ったりもしたが、それからしばらく時間が経ったのと、借り物なので書き込みができないのとで、なぜチェックしたのか今は分からない所ばかり。取りあえずいったん返却。付箋の部分を引用。


第二章 <鏡>という装置――ナルシスに囁くエコー 第四節 鏡像段階――<インファンス>の切断 より
赤ん坊は母親との区別がついていない。

フロイトがこの状況を描写するためにこと創案した「自体愛(autoerotisme)」というあの用語を、ラカンはここで敢えて断固として退ける。なぜなら、「そこには自我のイメージがないのだから」。それに対してラカンが提起するのは「能動的でもあり受動的でもある、言及することが不可能で融合的な人肉食カニバリスム)」である。そこには自己がなく、よって他からくべるされた自己の身体がない。だからそこには「自己(auto)」への「エロティシズム(erotisme)」など存在しない。自分のイメージがないのだから他人のイメージもない。だから自分と他人の区別もない。鏡の以前にある「原初的不調和」とは、ほとんど死に似た生の充溢であり、そこで寸断された身体たちの享楽は激発し、ただ永遠の「食い-食われる」が続くのだ。ラカンは言う、「ヒエロニムス・ボッシュの世界」と。
(p35)

また、「非-世界」の住人、言葉なき幼児、<インファンス>についてセルジュ・ルクレールの形容。

それは「王である子ども」であり、「至高にして決定的な形象」「塞いでおかねばならない光」であり、「専制君主の形象」であり、「われわれのあらゆる欲望の現実を、ほとんどヴェールを剥いだ状態で目撃させる」。そしてそれは「王であるこの暴虐な表象」「全能」なのだ。
(p35-36)


第八節 第一の象徴界――パロール象徴界、約束の象徴界 より
「おまえはこれだ」という言葉。

その言葉が「充溢した」と呼ばれるのは、まさにその言葉を発しそれに「諾」を言ったものの象徴的なステイタスを、地位を、全く変えてしまう言葉だからだ。それは他でもない「定礎的」な価値を持つ言葉である。これらの言葉は何かを叙述したり描出したり判断する言葉ではなく、「お互いの承認の中で打ちたてられる真理をめざし、それを形作る言葉(パロール)」であり、「行為をなす」言葉、定礎する言葉なのだ。それは「現前」する二人の人物を位置づけ、彼らに他の平面を通過させ、彼らを変形する」。だから、「そこで一方の主体は、それ以後は自分が以前とは違っていることを知る」。
(p50)

言葉(パロール)が他者へと話される水準における言葉(パロール)の言葉の関係を特徴づけているのは、本質的には他者Aの他者性による未知性なのです。
(p51)

「象徴的なものの媒介機能」

この「象徴的なものの媒介機能」を語る同じページにいわく、「すべての想像的関係は、主体と対象の間の『おまえか私か』というかたちで生じるということです。これはすなわち『もしおまえなら、私はない。私なら、ないのはおまえだ』ということです。象徴的要素が介入するのはそこです」。つまり「制御する第三項、何らかの命令によって主体の間に距離を取らせる第三項が介入せねばならない」。