『虐殺器官』と、現実の”おぞましさ”のこと

Amazonの閲覧履歴で『虐殺器官』を見つけて、思い出すようにオンライン配信を探している(そして大手にはコンテンツがないのをすでに確認済みなのにもかかわらず)と、Googleの検索候補には、映画版や原作に向けられた賛辞と愛情を綴ったブログをいくつも見つける。検索候補に戻れば、閲覧した記事タイトルの直下にも関連する検索キーワードがあがるようになっているのだが、こんなセリフがその中にひとつ”浮いて”いたのだった。

好きだの嫌いだの最初にそう言い出したのは誰なんだろうね?

一部の人々には、これが往年の人気ゲーム「ときめきメモリアル」の主題歌を引用したものであることがわかるようだ。戦争ものと恋愛ゲーム、このギャップにすこし驚きながらも、わたしはそのギャップゆえに――少なくとも自分は、こういった形で社会と関係を持っているのだ――とも思った。

 

人が「理解」するとはどういうことだろうか。外界の刺激を「理解」するには、いくつものフィルタが必ず媒介している。そのフィルタは、人、場所、状況、そういった無数のパラメータによって変わっていく。

現実を理解するときも同様のことが起きている。目の前で起きていることは、私のフィルタを通してしか「理解」されることはない。つまり、私たちにとって現実はつねにある種の虚構性をまとってとらえられるしかないのだ。あまりにも辛く、苦しい現実を前にしたり、理解しがたいほどの未曾有の事件が起きた時にこそ無数の物語が生み出されるのは、そういった状況がどれだけ典型的なストーリーで包摂できないものであるのかをよく示している。

 

自分なりのフィルタを通じて、私は現実と付き合っている。それは当然のことだともいえるが、うえに挙げたような大きな”落差”も時々混じっているのだろう。

 

だが、逆にその大きな”落差”が狭まることがあるとしたら、そこでは何が起きるのだろうか。たいていは私たちから現実に対して歩み寄ることで、ストーリーの軌道修正がなされていく。そうではなく、現実が私たちのほうに近づいてくるとすれば?――東京オリンピックの開催が近づくにつれて、その周りではさまざまな事件が起きている。その実現そのものに不穏なきざしを匂わせるような事件が立て続けに起きて、人々のなかではあたかも『AKIRA』が予言のように扱われはじめている。

「まさか」「ありえない」そう思われたストーリーに向かって、現実が近づいてきている。そのようにとらえるとすれば、次に起こるのは一体どのようなことだと言えるだろうか。精神科でいうような妄想、医療でいうようなコンタミネーション(汚染、混入)といった表現も思い浮かぶが、それ以上にもっと複雑なものと捉えたほうがよいかもしれない。ジュリア・クリステヴァが指摘したアブジェクシオン(”おぞましさ”)をキーワードとすれば、さらに具体的に分析することもできるだろう。つまり、見たくなかったものさえも混じってやってくるというわけだ。

アブジェクシオンとは、身に迫るおぞましいものを棄却しようとしている一方で、その棄却されたものが自分にとって実は身近なものであったという意味作用をもつとともに、それに関して自分の中をさらけだすこと自身をおぞましく思っているというニュアンスもつきまとうというような、そんな状態や作用をあらわすことになった

https://1000ya.isis.ne.jp/1028.html

人々が現実に対して見せるリアクション自体は、大した目新しさはないはずだ。それはきっと、予想されるほどのものでしかない。それよりも注意しておくべきは、それによって何が社会的にもたらされるか。大衆のあいだでどのような風潮が生み出されていくのか。

私も周囲の予想と同様ではあるが、東京オリンピックを経て、日本はまず間違いなく急速な”老化”を始めると考えている。アブジェクシオンを銜えこんだ状態の人々に対して、政府はそのまま社会システムをドライブさせようとするはずだ。そこでは小さな混乱がいくつも生じて、その反動としてのエネルギーさえも外資に吸い取られていき、結局は国家運営さえもまともに立ち行かなくなるほどの衰微に至る。政府は国としての国際的地位をなんとか高く保とうとして無理をするだろう。そこでまた現実との乖離が生じる。そのときにはもはや交戦するほどの国力も残っていないはずだ。その強硬な態度が内外に向けられ、そして日本は、かつて私たちが抱かされていた北朝鮮のイメージを自らにまとうことになるだろう。国としての評価が低い状態にありながら、人々は自らの国際的地位を夢想させられる。かつての技術や文化の残滓で食いつなぎながら、そのイメージだけで多国籍企業に食いつぶされていくのだ。

 

いうまでもないことだが、ここに埋め込まれる個人の物語が動き出すこともある。

そのとき動き出すアブジェクシオンなるものもまた、想像してみると面白いだろう。

Twitterの雲をつかむ

かつて、言葉を無駄遣いしてはいけないといった旨の忠告を受けた。そのような発言をすること自体、あなたの言葉や考えはそのようなものなのだから、と。

「そんなことを言っていると軽い人間だと見られるよ」という意味ではない。「言葉を不用意に使えば、不用意な思考しかしなくなる」「言葉の内圧を日頃より下げていれば、練度の高い言葉を出すことができなくなる」という意味だと捉えている。

あの忠告を受けたのは、もう8,9年も昔のことだったろうか。

 

彼の忠告を半分ほどしか受け止めていなかった私は、何とか内圧を高めようと試みたものの、失敗した。

自分に決定的な不足を理解していなかったのだ。――いわゆる技術 art を。

「自分のものではない構造物としての思考」≒「技術」≒「方法」。

 

最近ではTwitterをよく見るが、あれほどまでに有象無象が同じ話題で盛り上がっているのを私はこれまで見たことがなかった。一つの話題でも、人々の差がきわめて開いていることがよく分かる。理解、表現、疎通、どれひとつとっても同じではない。

これを一般論だと思うか。では、あなたが一つの話題にどれほど精通しているか、試しに見てみるとよい。これを読んでいるあなたでさえ、その話題にまったく偏った捉え方と意見しか持っていないだろう。そして、有象無象の言うことが全体としてどのような状況を作り出しているのか、十分に説明ができないだろう。せいぜいあなたにできるのは、あなたに理解できることを言葉にすることしかないのだ。

 

わたしはこの混沌をこそ理解の対象として挑んでいきたい。

その試みは、かつての表層的な、術語ばかりを追うような真似ではないものでありたい。(そして、この空虚な抱負は、ここから先を確かに掴みだすことに常に失敗し続けてきた。だからこそ、私はブログを書くことを止めてしまっていたのだ)

印相

印相(ムドラー)というものに心惹かれる。ここのところ消耗が速く、感情も伴って崩れていくことにはおそらく咳をしすぎたり、いずれ全身が不調に陥っているからではないか、であればいま少しの間に合わせで呼吸とこの態勢を整える「しるし」が欲しい、と思ったのだった。

印相とは仏像の手に示される形象を指すと思っているのだが、これは、古代における身体性を伴う文字なのだとどこかで読んだ気がする。古代だから書き文字が発達していなかった、というのではない。書き文字よりも、より全身の記憶として残しえるものが印相なのではないかと思う。

印相から、手話を連想させてくれたものもある。右の余白にはその例を示してあるが、あ、これはいけないと感じた。いま、これを見てはいけない、と。(https://1000ya.isis.ne.jp/0933.html

視覚的なものは、一気に了解を迫ってくるように思われる。いや、そんな受け身の話でもない。勝手にこちらが了解、納得した気になってしまうのだ。これを何と言えばよいのか、視覚から入る言葉は、より全身を通じて入る言葉よりも了解の「終点」が浅いところにとどまってしまうような気がする。
まるで他の捉え方を拒むような了解。それは、まるで頸を締める行為にも似ている。

檻の外

自己愛とは、自らを鎖(とざ)し込める檻のようなものだ。その内側にいる限り、「私」は私の檻から出ることができない。自らが檻の中にいることを選択しているからだ。では、どうするかだ。別の観点からこの“問題”を考えることにしよう。私がここで記事を書く際のクセがある。他のテキストを参照しようともしないのだ。まるで自らが全知であるかのような傲慢さだ。これはおそらく、神経症者の物言いだとも言われる、「そんなことは知っている」とも同じ場所にあることだろう。(http://aikansyheiwa.blog21.fc2.com/blog-entry-454.html このページで思い出した)
相手に本気で向かい合い続けていれば、この自家中毒の温床から抜けられるようにも思うのだが、どうだろうか。

 そんなことは大学でベンキョーする必要はない。第一、大学はそういうことを教えない。それよりも「本」を本気で扱ってみると、「方法の知」はたちまち見えてくる。本の入手から読み込みをへて、その本をどこかに提示しておき、その提示された本を何度も自分や他人に出入りさせてみるということをいささかでも続けてみれば、「知」が活性化するにこれを出入りさせるエディティング・インターフェースこそが重要で、その「出入りの知」をもって「分類の知」を動かすことこそが、本来の知の歴史の中央に列することではないかと思えるはずなのだ。
 1493夜『知識の社会史』http://1000ya.isis.ne.jp/1493.html

「それよりも「本」を本気で扱ってみると…」とは、人との付き合い方にも見える。相手に資するためには、相手を知り、こちらからできることを忖度する必要がある。これが損なわれる時は、自分本位、手前味噌の振る舞いとなっていることが多い。こちらのモノサシでしか相手を知ろうとしなければ、相手に資することなどできようはずもない。

しかし翻ると、これを内から外へと向かう一つのモデルにしか思えない。これは、私の不見識のゆえだ。自らを養うことが目的の座から離れようとしていないからだろう。どんなことも自らを成長させるために必要なこと、などと考えていれば、畢竟「私」の檻からは逃れることはできまい。

たった一つの源泉へ

私は、読書家や思想家、理解者や信仰者、どのような肩書きでも呼ばれたくなかった。そういった呼び名が私を縛り付けるように思えたからだし、そのように呼ばれるほどのことを私はやってきていないという後ろめたさと予めの責任回避の気持ちが働いたからだ。それらを包括して余りあるような私とは何か。それが「病う者」だったというわけだ。
このように表現することは可能だが、しかし承認欲求をこじらせた若者の思考は、人に問題提起をかまそうという大義・御託・おためごかしを錦の御旗にして、やはり自らを露悪的に見せるということをやってみせたのだった。そんなことなど、「彼」はお見通しだったのだろうか。フォークナーを直接に勧めず、フォークナーに心酔したガルシア・マルケスを勧めるあたりは、彼なりの距離のとり方というべきか。何しろ、真意を聞く機会など二度と来ないのだ。私のなかであの場での自分のコメントと渡された本と「彼」のコメントを思い出すにつけ、あらぬ想像と発見が終わることなく、尽きせぬ泉のように噴出し続けるのだ。・・・・・・本当に、ありがたいことだ。

ここ10年来、同じ事をずっと考え続けているのだ。飽きもせず。しかし、これも私が望んだことだったことをそろそろ思い出すことにしよう。おい、そろそろ起きろ!  その中の一つが、「私は何者かでありたいし、何者でもありたくない」という言葉でカタチをなしている。
よろしいだろうか、飽きもせずこのページを見てくださっている方々に、あらためて思い出してほしいのは、ここで語られていることは「自己愛に呪われた(笑)」者の言葉だということだ。この者は、「私は」とつけなければ話すことが出来ない。そして、自己愛にまみれた他者を激しく憎む。共感などしない。そして、共感されることを嫌がる(・・・そうだな。そうだ。よくある話だ。抑うつ神経症と診断された、自己愛の塊、新型うつ病とも呼ばれる人びとの特徴だ。まあ、そんなことはどうでもいい)。

私が心理学にどうしようもなく引き付けられ、しかしどこかで居心地の悪さを感じていた理由の一端がここに垣間見えている。心理学は、いや、精神分析は、いや、精神分析を志す者は、その姿、話しぶり、思考法のそこに潜む揺るがしがたい、およそ一つの源泉のみを探ろうとしがちである。彼らのロジックで言えば、分析されて掘り当てられた私の欲望とはそのようなものである。なかなか当を射ていることもあるので、はっとして二の句を告げなくなったり、抵抗したりするわけだが、不思議なことに「私のことを知りたい」と思ってやってきたものは、そんなの私じゃない、と言いたくなるのだ。それも一つの防衛機制というやつなのだが、しかし、本当にそれしか答えはないのか?と疑問が湧いてくる。もちろん心理的カニズムは仮説に過ぎないのであって、そこで理屈をこしらえることが目的ではない。心理療法においてはこれを実際の主訴の解決の材料として用いるのだと聞いている(もう、いいかげんに自信がなくなってきた)が、あえて同じ事を言い換えると、この疑問はもう少し別のことを聞いているのだ。源泉ばかり探って何が面白いのか?と。

よほど、ニジンスキーが宣言する多様な「私」のほうが、心安らかにさせてくれる。
分裂的な思考を好む者の特性だ、などと片付けられるかもしれないが、では、分析しようとする者には常に公平性が備わっているというわけではなかろう。よいだろうか、いい加減に「自分語り」に決着を付けたいのだ。たった一つの方法、価値観、私しかない、という信念は、あまりにも息苦しい。同一性の獲得など、必要ない。

つぎは、「同一性の獲得の不要」を謳う私の同一性についてでも問おうか。

機を見るに敏なり

実に1年以上経った。自分語りに決着をつけたい。

私はいままで全てに通暁していないといけないと思っていた。いまでも、だ。なんとなれば、知らないということが、私に責めを負わせるからだ。なぜ知らないのか、と。――おそらく私はこうも考える――人は言う、あなたに期待していたから聞いたのに、なぜ知らないのか。知らないで済まされるのか、この愚図、無能!と。……しかし、それはむしろ私の思い込み、自らの自己愛の所産だったということに、これまでまったく触れていなかったことにこそ気づかなければならなかったのだ。自らの問題意識を炙り出すために誇張された表現は、自らの認識を歪めさえする。やたらに穿(ほじく)り返され、尾ひれの付いた言葉は私の心性を偽装させる。そして、具体へと向かう気を喪わせるほどにまで、私をえぐり、腰抜けにさせる。まったくもって救いがたい(この言葉さえも、自己愛的だと言ったほうがよい)。
全知への渇望は、見捨てられることへの不安だったのかもしれない。

なおかつ、自己愛には自己嫌悪をもって制すればよいとも思っていた。自らの欲望に対しても、そうだ。欲望が自らの思考を奪うことを憎んでいた。いまもそうだ。だからこそ、欲望を排することに決めた。性欲を厭い、食欲を憎み、睡眠欲を排そうとした。「私の欲望は私が決める!」と高らかに自らの裡に宣言していた。そう、過度のものには過度のものをもってせよ、と言わんばかりに、それこそ徹底的に自己嫌悪を深めてきた。……しかしどうだ。今ここに「書いている」私に提示されたものは、自己嫌悪ではなかった。それは一つの方法に過ぎなかった。偏った方法。

およそ1年ほど前に、周囲のこと「で」考える、という方法を提示されたときから、この考えは揺らぎ始めていたはずだ。周囲のこと「を」考える、ではなく。これは画期的にも見えた。しかし、かつての私はこれをなじる。責任逃れだ、と。では私はあらためて問おう。お前は全知であることはできるのか、と。

これは、アプローチが誤っているのだろう。全知全能であろうとするのではなく、どこかで外の知にコネクトするタイミングを見計らっていなければならないのだ。機を見るに敏たれ、というほうが、よほど現実的である。まずは、ここからだ。

「象徴」の捉え方

ただし「無意識的なものは外界の事物に投影され(この事物を「象徴」とよぶ)それゆえに間接的に意識される」ということは述べておきたい。だから、変容のプロセスを問題にするかぎり、すぐれて主観的な、融合にちかい体験がカウンセラー−クライエントの双方に生じざるをえない。


『新版 転移/逆転移 』(氏原寛ら 2008、人文書院

「何かを代理する、代表するかのような内容の言葉、あるいは記号である。とくに精神分析では無意識との関係で理解されるもので、何らかの心的な内容、心的なエネルギーを代表、あるいは代理するもの、あるいは置き換えられたものを象徴と呼ぶ」


精神分析事典』2002,岩崎学術出版社,小此木ほか

http://d.hatena.ne.jp/obsessivision/20090708#1247050231

氏原寛の「象徴」の説明で、既に分かっていたはずのことが押し拡げられる印象を受けたので、改めて記す。
氏原によれば「象徴」は「外界の事物に投影された無意識的なもの」となる。


ここで精神分析は、「象徴」の投影元と言うべき部分を、無意識とみていることになる。
象徴は記号的なものである。あくまで観察者の視点に合わせて、仮設的に解釈を与えられてゆく。
本当に単純なことなのだが、つまり無意識が「地」となる点に注目すべきだったのだ。むろん、他分野で「地」の部分が異なることもあろう。


象徴には、前景にある知識体系との関連性の低さと、それに伴い、明示的である情報量の少なさ、また異なる視点・分野からの多様な解釈を許す点が特徴に挙げられる。
象徴は、概念よりも語義が曖昧である。語義を持つ必要がないからだ。しかし、観察者によって意味があるとみなされることもある。すなわち、象徴の意味は潜在的に内包されているとみなすこともできる。
象徴は比喩とも近い。しかし象徴が“明示された”ものであれば、比喩は“暗示する”ものである点、象徴は多義性を許し、比喩が必ずしも多義的ではない点において、両者は異なる。


苫米地氏が最も上位の概念とした「空」もまた、象徴と捉えてもいいだろう。