行為と思考を「書く」

今週のお題「書くこと」


言葉、行為、もろもろの外部に気をとられてはならない。
思考は自らを駆動させ、賦活させる。これを省みずに生きてゆくこともできるが、果たして自足に適うかは保証されない。もっとも、「一定の水準」を境に思考そのものが自足の要件となりえないことも注目すべきであろう。


話を分枝させよう。
先ほど「一定の水準」と述べた。ここには審級・領域を含意させたが、多くの議論において見失われがちなものである。議論が抽象的になるほどに、原因の見出せない深刻な食い違いが生じることがままある。例えば、2者における対立が、両者の立脚点の違いにあると看取できなかったとする。対立は激烈に、深刻になるほどに前景化する。すると、見出されてしかるべき原因は対立の後景へと退いてしまう。前景化した対立の激烈さ・深刻さは、原因となる指摘を許さない(それは対立する両者の注意が前景に偏っている、抽象思考が能力的に乏しい、あるいは別の審級で論ずることに不信・不謹慎を感じるなどの原因が横たわっているからだろう)。彼らの深刻な対立を和らげるには、いったん議論の「場を離れる」―審級をずらす―ことが必要になる。
まとまりを持った議論を展開するには、より上位の審級にたった視点が必要となる。これが構造を見出すということでもあろう。この姿勢を欠けば、いずれ議論は一体としての可能性を失う。


・・・私自身の問題は、まさにここだ。具体的に見えた話題は瑣末な抽象論へと道を外し、抽象的で月並みな、「ひとつの」答えを探し出そうとする。当初目指された話題ではないにもかかわらず。


話を戻そう。
では、思考が自足に適う境目とはなにか。どこにあるのか。
これに答えるためには、思考と“もろもろの外部”の関係に注目する必要もあるだろう。
そもそも、“もろもろの外部”とひとくくりにされた言葉・行為などがなぜ共通した「外部性」をもつのか。いや、「外部性」は現に存在するのではなく構造的にそう見出されるということであり、またそれは観察者の視点から「そのように見える」ということでしかないのではないか。


・・・いったい、私は何の話をしているのだ?ここには論点の不明瞭さしかない・・・
(おそらく、自ら閉じこもることと、社会的であることの相克について語ろうとしているのだろうが、例えばドゥルーズはセルフエンジョイメントを唱えた、と千葉雅也氏が指摘していた)・・・論点の不明瞭さは、典拠をどこまで遡るべきかを定めていない点にもあるだろう。いや、典拠が原因なのではなく、やはり論点が不明瞭であるがゆえの典拠の際限なさなのだ。


それにしても、なぜ自足しなければならないのか?自足とは何か?社会的存在としての人間の(これも恣意的な設定だ!なぜ先に断りを入れておかなかった?)自足は、社会的な享楽のもとででしか実現できないのではないのか?だいいち、社会的な享楽とは、何の謂いなのか。


・・・拠って立つ場所を明確にせねばならない。ここで私自身が初めの一文を再び、時間をかけて読んでみよう。「言葉、行為、もろもろの外部に気をとられてはならない。」


そこで見出されるものがある。言下に伏された動機ともいうべきもの。
――現実、日常世界のことに追われていれば、時間の足りなさ、間に合わねばらぬという切迫感で自らの感覚を振り返る余裕さえなくなる。今朝もまた、時間に遅れぬよう急ぎ、またいずれ行わねばならない指導めいた繰り言を想像して指先が冷たくなり、息も浅くなっていったのだった。
その指導というのも、仕事ができないとみなされているという職員へのものだった。当人ができていないであろう原因はなにか、と考えるにしたがって、自らがかつて体験した切迫感・あせり、思考停止などを追体験していたようだ。

この迂遠な思考そのものが私の現状であり、本人の状況を表しているとはけして言いがたい。ただ、実際の生活の中で穿たれるべき点を見つけなければ、どちらも救いがたく同じ場所をめぐり続けるだけなのだろう。おわり。

陰鬱さを通じて「私」を捨てる

幸いにして「選」に入り、遂に雀躍するかと思っていたが、しかし案の定というか、大して驚きもしない自分の態度にむしろ驚く。むしろこれからの道行きの険しさを想像しては、不安やあせりや胸のむかつきは収まりもせず――おのれの至らなさを一瞥するだけで、かねてから不調の胃から吐き気の気配を呼び覚ますまでになっていた。
ああ、ここまで不愉快が定着したのだな、と自らを嵌めたことを実感する。いや、これでいい、これでいいのだ。まだ足りないくらいだ。常に陰鬱をまとい、自らの立ち居振る舞いに全てミソを付けていくがいい。
喩えれば、絶えず指先から体液にも似た水をこぼし続けるようなもの。あるいは、自らを絞り込み続けて息も絶え絶えになっているようなもの。膝から上、頭まで薄暗い雲に立ち込められているようなもの。陰鬱なもの、とはこのようなイメージとしてまとわりつく。


しかし、この陰鬱さとは、それによって自分を意味/位置づけるものあってはならない。
「私はこれこれである」という自恃は、ひどく醜い。自らを自らのみによって意味づけることに、どれだけ価値があるのか。この世に息づいていると少しでも意識していれば、閉じこもることがどれだけ無益で、自家中毒的かは分かっているだろう。これは、いわゆる「主体性」、曲解された俗流の主体性とも近しい関係にあるはずだ。「〜である私」という地点に行き着くしかない人の狭苦しさは、見るに堪えない。
陰鬱さ――これを、自らを常に不安定におき続けること、自らを常に脅かされた状態に置くことと定義しよう。そこで喩えれば、「私を脅かし続ける『私』」という、ねじれた自己愛の定位置にある状態ではなく、「私が脅かされ続ける」という、「私」と呼ぶことのない不安な状態。これをこそ、いま私は得ようとしているのだろう(この「私は」さえも剥いでしまいたい)


しかし、逼迫した状況に置かれるとき、人は自らを意味づけることなく現状に臨み続けており、「私」という主張云々などに構っている暇もないだろう。いや、こんなことにこだわり続けているのは中2病の所産か。それを脱した実生活の人・大人は、無用な問いを自らに投げかけることもなく臨戦している、とも想像される。
 

選に漏れる、という夢

夢を見た。
選に漏れた私は、両手を初めからもがれたかのように、立ち尽くしていた。別に選に入ったからと言ってどうなるわけでもない。私が少し、きまぐれに、精を込めて作ったものを人の目に晒し、大勢のものと競わせようと思っただけだ。大して期待もしていなかった。ただそれだけだった。
しかし選に漏れた今、これをいかに評すか。まるで両手をもがれたようであり、飛べるはずの翼が初めからなかったようでもある。気遣われている。人並みの言葉をかけてもらっている。それでも、抜け落ちた両手に代わる言葉が与えられるわけでもなく、この体と思念が風化してゆくことだけが決まっているのを、見せつけられるような思いになる。

バズ、コメント云々

自分の言動を相対化し(視点を変えて)言語化する、という行為自体を解釈し、それを別の観点から言葉にする、という行為の集積がこのブログでやっていること、と言えばいいのだろうか。

つい、博士論文の不正認定に関する記事を読んでいて気づいたことを書きとめようとしたのだけれど。
なぜ事実を述べただけの記事で飽き足らないのか。――いや、「なにを読みたいのか、なにを欲しているのか」と自問したのだった。あまりに見苦しくて非表示にしたヤフーコメント欄が気になったり、バズ数を見たりするのは、つまり感情的な反応、いや自分の感情をあおるような感情的な文章を探している(つまり、「読みたい」)と思っているからだろう。集団的自衛権に一定の“判断”がなければ、多くの人の場合は自分がどちらに向かえばいいのか分からないように。
人の心情的な反応という、あんなに見苦しくて不快なものをこそ見ようとするのは、なぜか。なぜか。

食べること。と、理解すること。

かつて、“ラカンの書物に書き込みを行って呻吟し続けていたら、あるとき、書かれていることがみるみる理解できた。そのとき、沢山の書き込みを片端から消していった”というエピソードを聞いて今でも忘れずにいるのだが、抽象性をその硬さのまま呑み下すことができないからこそ、多くの場合は何度も読み、読み返し、読み直し…云々喃々とするのだ。何度も硬いものをしがみ続けた結果、それはその人の血肉という「具象性」をまとって、あるいは変容して現れる。
ごくつまらないことを言うのだけど、そうやって血肉になったものが、果たして他の文脈で応用可能なのか?と自問したくなることもある。――もちろん、ないことはないだろう。そもそも、ここで抽象―具象とか、血肉などと二項的に喩えることが論理を狭めかねないのだけれど。しかし、いったん血肉にしてしまえば、抽象性はすなわち具象という一義性に絡め取られはしないだろうか。硬いものをそのままに飲み下すことは出来ないのか。

頭がよくなりたいよ。そう最後につぶやけば、語るに落ちるわけだ。

神話・妄言・仮説

(何事かを説明するにあたって)特に人文学の研究領域では「原理」は類例や反証と共に少しずつ書き換えられてゆくことのほうが大いにあるのではないか。
フロイトの原父殺害にしても、アウグスティヌスの兄弟嫉妬にしても――もちろん、まったく同列に置いていうのではないが――それは提示された一案でしかないだろう、という感覚を備えていなければならない。起源を探るとき、そこに目覚ましい一つの発見があればよい、という感覚がどこかしらに備わっているのだろうか。なんとも、理解することに腐心した「人間」らしい、というか。
もうすこし、広げて無理強いをしてみよう。たとえば、津原泰水氏が川上未映子氏とのやりとりで、尾崎翠を「教えてあげた」というくだり。佐々木中氏が千葉雅也氏の「吠えた」ことをあげつらうくだり。お互いに一致していない、結局はいずれかが誤認しているであろう、いわゆる妄言と名指されるものも、上記の2つと同じことだとも見える。え、違うって?
事実とは違う/それ唯一ではないはずの言葉が大きな存在感で何やら不穏な空気を醸し出そうとすること。それは人のなせる業ではあるが、人ゆえになせる業だ、ということまでは分かる。

書き散らし

・見者として俯瞰的にこれを捉えることができるならば。「できたならば」ではなく。
・自らの肉体を削り落とすだけでは足りない。
・周りの風に吹かれて、たとえば臆病風のような。自らのぶよぶよした欲望に何が入っているのかも分からず、もはや古びて内容物が漏れ出すような皮袋。
・壊れることなく、見者としてopusを産出しつづけるには。