バズ、コメント云々

自分の言動を相対化し(視点を変えて)言語化する、という行為自体を解釈し、それを別の観点から言葉にする、という行為の集積がこのブログでやっていること、と言えばいいのだろうか。

つい、博士論文の不正認定に関する記事を読んでいて気づいたことを書きとめようとしたのだけれど。
なぜ事実を述べただけの記事で飽き足らないのか。――いや、「なにを読みたいのか、なにを欲しているのか」と自問したのだった。あまりに見苦しくて非表示にしたヤフーコメント欄が気になったり、バズ数を見たりするのは、つまり感情的な反応、いや自分の感情をあおるような感情的な文章を探している(つまり、「読みたい」)と思っているからだろう。集団的自衛権に一定の“判断”がなければ、多くの人の場合は自分がどちらに向かえばいいのか分からないように。
人の心情的な反応という、あんなに見苦しくて不快なものをこそ見ようとするのは、なぜか。なぜか。