食べること。と、理解すること。

かつて、“ラカンの書物に書き込みを行って呻吟し続けていたら、あるとき、書かれていることがみるみる理解できた。そのとき、沢山の書き込みを片端から消していった”というエピソードを聞いて今でも忘れずにいるのだが、抽象性をその硬さのまま呑み下すことができないからこそ、多くの場合は何度も読み、読み返し、読み直し…云々喃々とするのだ。何度も硬いものをしがみ続けた結果、それはその人の血肉という「具象性」をまとって、あるいは変容して現れる。
ごくつまらないことを言うのだけど、そうやって血肉になったものが、果たして他の文脈で応用可能なのか?と自問したくなることもある。――もちろん、ないことはないだろう。そもそも、ここで抽象―具象とか、血肉などと二項的に喩えることが論理を狭めかねないのだけれど。しかし、いったん血肉にしてしまえば、抽象性はすなわち具象という一義性に絡め取られはしないだろうか。硬いものをそのままに飲み下すことは出来ないのか。

頭がよくなりたいよ。そう最後につぶやけば、語るに落ちるわけだ。