神話・妄言・仮説

(何事かを説明するにあたって)特に人文学の研究領域では「原理」は類例や反証と共に少しずつ書き換えられてゆくことのほうが大いにあるのではないか。
フロイトの原父殺害にしても、アウグスティヌスの兄弟嫉妬にしても――もちろん、まったく同列に置いていうのではないが――それは提示された一案でしかないだろう、という感覚を備えていなければならない。起源を探るとき、そこに目覚ましい一つの発見があればよい、という感覚がどこかしらに備わっているのだろうか。なんとも、理解することに腐心した「人間」らしい、というか。
もうすこし、広げて無理強いをしてみよう。たとえば、津原泰水氏が川上未映子氏とのやりとりで、尾崎翠を「教えてあげた」というくだり。佐々木中氏が千葉雅也氏の「吠えた」ことをあげつらうくだり。お互いに一致していない、結局はいずれかが誤認しているであろう、いわゆる妄言と名指されるものも、上記の2つと同じことだとも見える。え、違うって?
事実とは違う/それ唯一ではないはずの言葉が大きな存在感で何やら不穏な空気を醸し出そうとすること。それは人のなせる業ではあるが、人ゆえになせる業だ、ということまでは分かる。