陰鬱さを通じて「私」を捨てる

幸いにして「選」に入り、遂に雀躍するかと思っていたが、しかし案の定というか、大して驚きもしない自分の態度にむしろ驚く。むしろこれからの道行きの険しさを想像しては、不安やあせりや胸のむかつきは収まりもせず――おのれの至らなさを一瞥するだけで、かねてから不調の胃から吐き気の気配を呼び覚ますまでになっていた。
ああ、ここまで不愉快が定着したのだな、と自らを嵌めたことを実感する。いや、これでいい、これでいいのだ。まだ足りないくらいだ。常に陰鬱をまとい、自らの立ち居振る舞いに全てミソを付けていくがいい。
喩えれば、絶えず指先から体液にも似た水をこぼし続けるようなもの。あるいは、自らを絞り込み続けて息も絶え絶えになっているようなもの。膝から上、頭まで薄暗い雲に立ち込められているようなもの。陰鬱なもの、とはこのようなイメージとしてまとわりつく。


しかし、この陰鬱さとは、それによって自分を意味/位置づけるものあってはならない。
「私はこれこれである」という自恃は、ひどく醜い。自らを自らのみによって意味づけることに、どれだけ価値があるのか。この世に息づいていると少しでも意識していれば、閉じこもることがどれだけ無益で、自家中毒的かは分かっているだろう。これは、いわゆる「主体性」、曲解された俗流の主体性とも近しい関係にあるはずだ。「〜である私」という地点に行き着くしかない人の狭苦しさは、見るに堪えない。
陰鬱さ――これを、自らを常に不安定におき続けること、自らを常に脅かされた状態に置くことと定義しよう。そこで喩えれば、「私を脅かし続ける『私』」という、ねじれた自己愛の定位置にある状態ではなく、「私が脅かされ続ける」という、「私」と呼ぶことのない不安な状態。これをこそ、いま私は得ようとしているのだろう(この「私は」さえも剥いでしまいたい)


しかし、逼迫した状況に置かれるとき、人は自らを意味づけることなく現状に臨み続けており、「私」という主張云々などに構っている暇もないだろう。いや、こんなことにこだわり続けているのは中2病の所産か。それを脱した実生活の人・大人は、無用な問いを自らに投げかけることもなく臨戦している、とも想像される。