人は易きに流れる

「三つ子の魂百まで」という。ただ若い時分の性質は、年経ると”変質”する。

 

このところ、コミュニケーション自体が面倒くさくなっているように思う。これがどういうことか、自分でもなんとか見当がつく。いちいち面倒なことをしたくないのだ。

コミュニケーションとは、基本的に”異なる言語”を話す「他者」との間で言葉などをつかって関係を形成することだ。たいてい、その”異なる言語”はすぐに理解できるものではない。だから質問したり、言い換えてみたりして相手の意図を知ろうとする。相手のアクションがテンプレートであったとしても、だ。コミュニケーションは、双方のやり取りのうえで成立するものであって、ときに文脈抜きでは理解しきれないような微妙な表現であることも十分にあり得るからだ。

つまりコミュニケーションにおいて、私たちは目の前のわからないことと付き合わなければいけないわけだ。年を取ると、それが大変鬱陶しくなる。だから、どうするか。

相手に質問をしない。

自分勝手なことを言う。

自分の無理解を相手に転嫁する。

こうやって、人は易きに流れる。…いや、年齢はあまり関係ないかもしれない。若くても相手を理解しようとしないやつなんて山ほどいるもんな。マウンティング、いじめ、目立ちたがり。そうやって人を踏みつけにする快楽を知った者は、死ぬまで知性に触れることなどないだろう。知性は、保身や攻撃のためにあるのではないのだよ。絶えず自分自身の足元から見直そうとすることしか、知性とは呼ばない。それ以外は、単なる反射運動だ。

その点で、私の足元を突き崩すのは、コミュニケーションに対する回避的な態度だということを改めて記しておく。