飽きもせず印象評論について

ああ、語らず黙せず、一人歩き続けるこの肉塊は、ふと気がつくと何事かを呟いている。この揺=蕩う感覚。揺れ、蕩けるような時間。「私」は言葉の中で、この肉体を言葉にして歩き続けている、と感じる。
言葉として腑分けできるものと、できないものがある。より精確を期して――しかし喩え話でしかないが――、なまくら包丁でも削ぎ落とせない肉がある、というべきか。切っても切ってもそれは皮一枚下の脂身でしかなく、つかみ損ねるものが確実にあるのだ。最後の手段として、比喩という大きな投網を持ち出すことになる。すると、それまで群盲象を撫でるがごとき行為で、あるいは木を見て森を見ぬような行為では捉え得なかったものがようやく形を表し始める。もちろん、そこに先のメスを用いるような鋭さはない。そこで理解可能となるのは、有体に言えば「仕組み」であり、「からくり」であり、「構造」である。やはり苦肉の策でしかないが、結局そうせざるを得なかったのだというべきだろうか。しかしなかなか自身の目的を果たしうるような方法は見つからないものである。科学的視点を信奉する者はマクロ的観点という逃げを打つことができればいいが、往々にして具体性を求め、比喩的把握を試みる者は全く見当違いな目でうわごとを繰り返す。そう、結論に至りえることはないのだ。たとえば批評行為は有象無象の自意識の塊どもが試みる手段なのだが、そこに映し出されるのは対象どころか、対象に映し出された自身の歪みきった自意識の映し身でしかない、などということが本当によくある。ただ一つの正解などない。
もっと具体的に言おうか。しかし…これも、何度繰り返したことか。映画の印象評論に関する自戒である。なぜ執拗に印象評論を意識し続けるのか。そこには、いともたやすく人の迷いが滲みこむからである。それは「論じた」ことになるのか。否である。精神分析的には転移とも呼ぶのだろうが、彼らにそう名付けたところで何の解決にもなるまい。「でも私はこう思ったんだ!!」――特に日本人の悪い癖だ。そう思うのは別にかまわない。それを堂々と大勢に向かって誇らしげに自分の知性、博識、あるいは「本当の私」を披露したいがために映画をダシに使うのは本当に許せない、と私は未だに感じている。「本当の私」だと?そんなものがあってたまるか、仮にあったとして、誰がそんな与太話を聞きたいと思うか。そういう者に限って、他の者の考えに対して不寛容で、理解しているどころか感情的に反発しやがる。まるで自身が否定されたかのように感じて、烈火のごとく怒るのだ。ついぞ私も、いい加減頃合いかと思って長年同居していた男に常々思っていたことを、話の流れをできるだけ読んで(そう努力したつもりだ)遂に口にしたのだ。するとどうだ。彼から帰ってきたのは、つまりこのようなニュアンスだ……“今までお前を教育してきてやったのは誰だと思っているんだ。お前に俺を注意する筋合いはない。お前は人のことをとやかく言う前に自分の問題について向き合うべきだ”。驚いた。自身の問題に向き合っていないのはあんたもじゃないか。あんたはそれに気付いていないのか?!驚くと同時に怒りなどどこかへ吹き飛んでしまった。驚きを通り越してあきれてしまった。確かに自分にも至らないところは本当に多い。それは取り組むべき課題として見失ってはならないが、しかしそれを教え伝える者にとって、自身の問題に対しても、他のあらゆる者からの苦言を聞き届けることが誠意というものではないのか?どれだけ理屈立てて説明を試みてもこのざまなのだ。自分が何事かを語る時、自分がいかなるものであるかと翻って問うことは、まず初めに行わなければならない喫緊の課題であると私は信じている。はっきり言っておくが(これは聖書の受け売りだ。まったく噴飯ものだ)、ここでも最終的に到りうる答えなどない。もし答えなるものが見つかる時は、それは自身が考えるのをやめた時だ。
印象評論の話の続きだ。かかる者は、自身の印象にしか基づかない寝言をグダグダと述べ、あろうことか無責任にそれを投げ捨てていく。自身の発した言葉に何の責任も持っていないのだ。いったいその言葉は何のために、何に基づいて発せられたのか?若者もまた、自意識の熱に浮かされて訳の分からないことを口走る。この病が癒えぬままに一部の者たちは年を重ね、人に教えを垂れることに何の危ぶみもなく得々として若者に説教をするのだ。もう一度言うが、答えなどどこにもない。誰がどう思おうがそれは勝手だ。もしそれが本当に必要だと感じるのならば、それは「特定の状況下において」必要なのであって、それ以上のものではない。つまる所何も知らぬ者には、道端の糞を投げつけてやるだけで十分なのだ。もちろん、そうするからにはその行為に対して引き受ける腹積もりを欠いてはならないのだが。糞一つ投げるにも覚悟が要る。いわんや映画に対しても、である。何に基づいて言うか、をはっきり述べなければならない。「評論」「批評」というからには、最低限のマナーである。それがなければ、人の家に土足で上がりこむ盗人と同じだ。人の者にけちをつけるのならば、最低限の礼儀を払う必要があろう。
だが、そんなことをして得られないものが得られるわけではない。どこまでも寝言でしかないことを知り、物を言うしかない。科学的視点とやらをもっているからといって、免責されるわけではない。最近面白いことを言った方がいた。科学ですらヒューマンエラーがある。見事な、そして私ではなかなか気付かない事実/見解だ。具体的であればそれなりの、抽象的ならばそれなりの腹積もりが必要になる。今一度、自身が何をしようとしているのかを問い直す必要がある。