『愛のむきだし』

愛のむきだし』、この作品を今まで見ていなかったことに心から後悔している。なんという映画。あまりに濃密で、あまりに情感的。薄められた空気から匂いたつ、そのしじまのような、たとえばフランスの伝統的な、愛についての作品であったり、それに類した最近の作品群とは質を異にしている。映画とは「作る」ものである。写実派とは一線を画すスタンスで、園子音監督は本作を生み出した。セリフが、まさに太い釘のように容赦なく突き刺さってくる。前半はエンタテインメント、後半が社会への主張。なんとまっすぐな言葉を投げつけるのか。まっすぐに言葉を投げつける術すら、我々のほとんどは知らない。彼は登場人物を演じる人々に渾身の演技を求め、作品へと向かわせる。彼らの体から、口からほとばしるエネルギーの塊は、狙いを定めて振り下ろされたハンマーのようにこちらへ向かい、そして私はさんざんに打ちのめされる。
コリント人への第1の手紙13章、ここは私の最も愛する作品、クシシュトフ・キェシロフスキの『トリコロール 青の愛』で歌いあげられる。満島ひかりはそれを一気に謳い、その向かう先にユウがいるのではなく、その実は観客が、私がいるのであり、彼女の見開いた強い瞳に気圧されて涙があふれる。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、鏡と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

(『聖書 新共同訳』より)

彼の作品は緻密に計算されて作られている。そしてほとばしるエネルギーを込め、食傷にならぬよう細かな配慮によって237分を刻み通す。もし2度目を観ることがあれば、多くの作品では前半で気が萎える。彼は複数の視点から出来事を思わぬ切り口で数回にわたって映し出す。登場人物のそれぞれに物語、ドラマがあり、ある種の深淵をそれぞれが持つところまで描き出す。ゆえに作品は作品としての魅力、リアリティを帯びるのであり、同時に作品としての分析的関心をも呼ぶことになる。そこでは明らかな演出さえも違和感なく、その場を作り出す効果的なツールとして役割を発揮する。役者の力もまた、そこに貢献しているのだろう。ありていなリアクションだが、ユウが初めてサソリとしてヨウコに出会ったときに口をパクパクさせる。このコメディかリアリティか、というギリギリのバランス感覚は素晴らしい。見事、まさに見事。何度観ても飽きない作品は、不思議な魔力を持っている。『愛のむきだし』という「作品」――この映画にこそ与えられるべき呼び名だ――は、脱会者のための手引きとして、まさにバイブルとして片手に持たれるべきである。
しかし悲しいかな、この年になると作中のメッセージや設定に共感し、反発する度合いが強くなる。自身の考えが妙に固まってしまっているからだ。もっともっと、繰り返し観たい。もう一度、園子音という監督「が」作った「作品」を、全身で感じ取りたい。これは必見である。あまり映画を観ない者たちが絶賛していたのは、ここにきて納得できたのだった。