「私たち」のプランA、または安全神話について

 

COVID-19蔓延をめぐって、多くのシステムのほころびが明らかになっているように思う。
岩田健太郎氏のこのつぶやきなど、興味深い。 

 

現システムを守るためだけに、事実を検証せず、直視せず、無視・矮小化する。自らの物語を優先していい状況かどうかを判断することが、「内部」に居る人々にとってどれだけ難しいことであるのかが想像される。

自分が持っている考え方に対して、特にその偏向性(バイアス)や不正確さを注意しておくことは重要だ。いったい何が「正しい」のか、と。そのような点で、以下の記事はとても参考になる。 

日本人マルウェア開発者インタビュー(前編) プログラムの「悪意」とは

日本人マルウェア開発者インタビュー(後編) 攻撃者が考える「良いセキュリティ専門家」とは?

 

この記事でいう「日本のセキュリティ・エバンジェリスト」のスタンスは、『音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 』で挙げられた音楽の評論家によく似ていると思った。リテラシーの低い層を相手に、自分のリテラシーを切り売りするという点で。

 

これに対して、海外では“「起きてからどうする」っていう「Do」の発想”なのだという。「多重化は、信頼性ではなく、迅速に対応するための時間稼ぎにあったりする」という点など、まさに現在の新型コロナウイルス流行について、岩田健太郎氏の指摘する「プランAだけでなくプランBを」にも通じる。そもそも海外ではプランBという状況を織り込んで話をしているということなのだろう。

 

この「日本のセキュリティ・エバンジェリスト」のふるまいは、この風土の特質をよく表していると思う。
自分たちが使っているシステムに疑問を持たず、平時の運用技術にのみ特化したスペシャリストであろうとする人々は、何かあったら提供者(ベンダ、サプライヤ)に任せればよい、という。じゃあ提供者にも被害が及ぶような状況なら、われわれは一体どうすればよいのか?という問いは、その空気のなかで無かったことになる。 

 

いったいどれだけの人々が、自分たちの置かれた状況をただしく把握しようとしているのか。どれだけの人々が、自分たちが危機に陥ったときの対策を考えているのだろうか。

 

この「日本のセキュリティ・エバンジェリスト」は、現在のコロナ禍に目をつぶる日本人とみても面白いだろう。そこで浮き彫りになるのは、現在のシステム破綻にもかかわらず、そのシステムの正しさを強硬に主張して内ゲバになだれ込むような、臆病で視野の狭い内弁慶たちの姿だ。