「問題の所在」へのイシキ

問題の所在をはっきりさせようと、私たちは時に躍起になることがある。その際に必要とされるのは、人間の理性。そして少々の感情。この2者を対立概念として捉えるあたり未だに旧態依然とした思考を脱しきれていないのは明白だが、そこを今問い質すと論旨も糞もあったものではなくなるので見なかったことにしよう。といってそこまでのものではないのだが。。。「問題」と呼ばれるものは、ごく当然のように初めからあったものではない。観念的な問題群において、具体的な名を付けるということはそこまで大したことではない。人間はそもそも具体的にしなければ思考を拡張させられないからだ。つまり名づける事により、意識の方向は具体的になり、対象化される。志向された問題群は一度還元され、単純な問いを投げかけられる。こればかりはしかたのないことなのだ。分からないものを分からないと言うことも一つの知恵ではあるが、現実的な側面からのアプローチにはこれが大方有効な手段として目される。それはごく簡単な問いからでよい。即座に答えられるような類で結構だ。実は、初めの問いとは、厳密には、以降の質問とは性質を異にしているのだ。すなわち初めの問いは問題群に対する自身の関心領域の、最も端的な言明であり、以降の質問を作り出すためのとばぐちなのである。そこから大方の質問を投げつけては解消するという作業をしばらく繰り返す。一定程度の飽和を見たならば、一応の終わりを見た、と言ってもいいだろう。そのため、多くの人々はここで問うことをやめてしまう。少なくとも現実的なことに関しては(自分なりの答えが)分かってしまったからだ。だが、それ以上に必要なことが、この先にあるということを明確に意識する必要がある、と私は考えている。それはハードに対するソフトな部分であり、空気のような部分だ。こここそが大切だ。自身が何でできているか自覚する必要があるように、問題群の非常に感覚的な部分を改めて問い直すことは極めて重要な意義を持つ。問題に対する視点の意図的な変換。この志向は問題に対する意識をより根本的な方向へシフトさせうる。現実的な問題に取り組んでいる際に微かながら感じる、違和感、これをより明確化させるのである。しかし、この取り組みは容易に自分自身によって阻まれる。より言えば、自身が気付かずにいた感情的な側面が問題へのより深部での取り組みを拒んでいるとしていいだろう。そのため、新たな視点はふとしたとき、突然に訪れることがある。それは多分に感覚的であり、一瞬で自身が何を感じていたのかすら分からないほどの微かさであるかもしれない。それをより執拗に見つめてみる。そして、いわゆる論理を一度脇に置いて、感覚的に捉えてみる。そうすると、より深部での問題群は感覚という網に掬いとられるのである。その問題群の形を極力損なわず、丁寧に捉えるように言葉を選んでゆく。そして問題群は新たに形をなすのである。饒舌に言葉を費やすかもしれないし、あるいは一言で済まされるかもしれない。
こうやって、問いは繰り返し繰り返し、自身の限界を試し続けている。いかに苦しかろうとも、これをやめてしまっては問題の血肉化、それを根本的に解決したことにはならない。問題の所在、などという言葉を使っている間は、目の前のことしか見えていないのだ。自分の後頭部や髪の毛の数を分からないまま生きながらえてよいはずがないだろう。