「群盲象を撫でる」とholism

自然科学における分析的手法への批判は数知れず存在する。対象の特性を個々に挙げて、その集積が対象全体になるわけではない――という批判は、ゲシュタルト心理学でもその文脈に乗っていたかと思う。この例えに似て「群盲象を撫でる」という語がある。Wikipediaを参照しよう。ジャイナ教の場合。

ジャイナ教の伝承では、6人の盲人が、ゾウに触れることで、それが何だと思うか問われる形になっている。足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えた。耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。それを聞いた王は答えた。「あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです」と。

これをジャイナ教相対主義に比し、「同じ真実でも表現が異なる場合もあることであり、異なる信念を持つ者たちが互いを尊重して共存するための原則」を示していると言う。たしかに見ようによってはそうだろう。自分以外の体験ができない我々が何をできるか、という問いには、同じコミュニティ、同じ事柄に携わる者の均等で柔軟な協力関係は必要ではある。しかし、これは真実とは何であるか、という問いには触れることもない。
かりに皆が群盲のような立場にあるとして、では真実とやらはどのように捉えることができるのか?なぜ、表現が異なれば互いの体験したものを、異なるものとしてしか認識できないのか?異なる、とはどういうことなのか?

また、全体性に視点を向け始めた自然科学の分野の方々は、その分析的手法の課題を克服することができるのか?全体性を提唱することはできても、実践することはできるのか?分析的方法と全体性holismに懸隔がこれまで生じてきたのは、並々ならぬ難しさがあるからなのだろう。

眠いので寝る。後に追記する。