境目、法

境目が近づいている。何の境目かだって?質問として認めません。ともかく。もうすぐその「境目」がやってくること、それは脅威ですらあって、何か深い陥穽が口を開いているようにも見える。大袈裟ではない。
「そんな深刻に考えなくても、あっという間に過ぎるって」「そんなに悩まなくていいんじゃない」「誰もが経験することだよ」
ったくうるせえな。そんな返答しか期待できないから、誰にも言えないでいるのだ。じじつ大したことじゃないのなんて知っているし、無視決め込んでいればいつの間にか過ぎているものなのも知っている。初体験だって20歳越えだっていつのまにか過ぎ去ったじゃないか。だが、そうやって、物事を一般化することで自分自身の問題を薄められるとでも思っているのか?それは、膨満しきって今にも破裂しそうな危うい精神のガス抜きにはちょうどいいだろう。だが。問題はおもくそ無視されている。例えて言えば、大雨の日に出歩いて濡れネズミになりながら、「昨日は晴れだったなあ」とか言ってんのと同じだ。何の問題解決にも、何を言っていることにもならない。現在のことを棚上げして、目を逸らしてでも、お前はそんなことを言いたかったのか?それは責任回避だ。一般化という、愚行だ


自分の問題を正当化するために、多くの人々はあらゆる手管を使う。
一つ、巨視化。「人類全体から見たら自分の問題なんてちっぽけなものに見える」
一つ、一般化。「みんなそうやって大きくなっていくんだ」「常識的に、これってこういうことだろ」
一つ、自己完結。「そうなる運命だったんだ」
など。

「正当化の何が悪い」とぬかすか。それはすでに開き直りだ。そもそも自己正当化など、できやしないのだ。それを、論理だとか定説だとか真実だとか目の回るほどのバカぬかして、何とかして自分の居場所を固めようとしている。そんなに不安なのか。不安でいるのがそんなに堪えられないのか?
不安なままでいいじゃないか。不安の内にあること、それこそ当然のことではないのか。カフカの『審判』で僧はKにこう言う。「すべてを真実だなどとと考えてはいけない、ただそれを必然だと考えなくてはならないのだ」。必然は真実のように私に与するものではないだろう。それを、何か正しいことがあると思いこもうとして、何になるか。Kが僧の言葉に対して以下のように言うことからも、Kという人間にとって、あるいは/すなわち自らを恃みとする者にとって何が決定的にずれているかを示してもいる。「憂鬱な意見ですね、虚偽が世界秩序にされているわけだ」。

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同じことを繰り返すのはいい加減やめよう。こうやって、別の問題に摩り替えることも、問題やそれに伴う責任から無視と回避を決めこんでいることと何ら変わりはしない。
私にとって、あらゆることに決定的な動機付けが足りない、と感じているのがまず最も大きなことであった。何をするにしても、「動機付け」とやらが足りない、と。
だが、そうではないのかもしれない。まず、自らが自覚すべきは「法」ではないのか。強いられるものであると同時に、自らが遵守するものである「法」。法律でも、法則でも、仏法でもないもの。誰かがこれと定めたものが「法」だというのではない。極めて抽象的で、禅問答のような内容でもある。“実体を持たない「法」を守るとは?”「法」が何を示しているかも分からない。しかし守らねばならない。いったい、何のことを言っているのか?


もはや自分でも何を言っているのかよく分からない。ただ、同時に参考にできるかもしれないこととして、いつも私の頭のどこかで唸りを上げているタルムードという謎めいた存在。ユダヤの民のための云々、うるせえなそんなこと言ってんじゃないんだよ。陰謀説ぶちあげて飯でも食ってろ。私が気にしているのはこうだ。なぜ、注釈に次ぐ注釈で、あれは構成されているのか?
――それに対して、まず「忘れぬため」であろうと考えられる。結論ではなく、交わされた議論にこそ価値がある、と言わんばかりに。「忘れぬため」に。自らの言葉を放棄してしまわないように。そうではないのか?