「ところが」

ところが、先ほどまでニヤニヤ笑いを浮かべていたはずだが、彼が指先に示したのは黒く汚れた人差指の爪と自分の家の黒白垂れ幕だった。こちらとしては、今日が彼の父親の葬式だと知っている。彼がなかなか風呂に入りたがらない無精者なのも。
新三郎なんて、なかなか時代を追いかけたような名前じゃないか。彼の父親、新三郎はちょっとした分限者の息子だった。村で盗人が出た、と騒ぎが起きたときには、駐在のところに集まる村人を尻目にタバコをふかしていた。遅すぎるでも早すぎるでもなく、悠々と名士らしい風体で村人がやいのやいのと集まる場所を当然のように顎先で割って入ると駐在に向かって言ったそうだ。「親父の連れが探してんだと。こいつの身柄は俺が売ってくる」
駐在も今度は体面を保つのが目下の目的となる寸法だ。「いやしかし、犯人は本官が聞き取りを行ってからでないと」云々。ろくに聞きもせずに父は近くの小作に指図して、ぎゅうぎゅうに縛った盗人を引きずって去っていったのだそうだ。
どうやらその盗人は特に盗みを働いたわけではなく、利ざや以上に巻き上げられた質草を金貸しから取り返すつもりだったのだそうだ。大して悪人とも思えぬその男は、父親の手で土蔵に一年以上閉じ込められる破目になった。どちらかといえば善良な盗人――太郎としておこう――は、わけもわからず土蔵に放り込まれ、不遇と非道を呪っていたという。
父親はその呪詛を遠くに聞きながら、ニヤニヤ笑いを浮かべていたのだそうだ。
黙っていないのは駐在と、太郎の身内、金貸し、そして村人たち。父親を除く村中の全員だ。この一件は誰にも「よくわからないが、新三郎はおかしい奴だ」という結論に至らせたのだった。かといって、新三郎に道理があったかというとそれもまた藪の中というやつだ。私が伝え聞いた後日談には、太郎はある夜土蔵を抜け出して三軒隣の爺に見られ、爺が新三郎のところに注進に行くや行かぬかという辺りで走り去ったのだと。
それから太郎を村で見かけたという話もなく、気味悪さだけが残ったというわけだ。
新三郎は庭先で倒れていたという。太郎の復讐だという者もいれば、息子の旧次の仕業だという者もいる。
近所の者が山菜取りの許しをもらいに訪れて、新三郎の死を母親の梅世に息せき切って伝えたのだそうだ。梅世はまあ、と一言いったきりで、あとは下女に二言三言話して奥に引っ込んだ。またかと言いそうな面の下女が結局葬式を挙げ、梅世も誰も身内の者は顔を出さなかった。
その朝方に、息子の旧次に遭ったのだ。薄汚れた首元とゴムの伸び切ったシャツでニヤニヤ笑う彼に何をしているのか、と聞いた。
「釣り」と応え、ガムを噛み噛みこちらを見ている。何を言うでもなく、妙な沈黙が続く。彼は自宅を指さして、一言つぶやいた。「イタチが来たんや」
ついと背を向け、ガムを道に吐いて自宅へ入っていった。

あの家の者は何かの都合で一人抜け、二人抜けして、いつの間にか蛻の殻となった。そこ数年の間だった。大した理由でもなかったのだろう。誰かが思い出したように帰って来ては、どこかへ去って行った。しばらくは家の面倒を見てくれていた老夫婦も物故し、あの家に住むのは野良猫くらいなものだった。
今でもあれは何かと思い出す。よく分からないが、自分とは無縁の事情で生を送る者もあるのだな、と今では思う。悪い印象をなぜか持っていなかったこともあり、村の住人が悪く言うのもどこかしっくりとこない。分からんことは分からんのだ。彼らはどこかで生きているか、死んでいるのだろう。