肚は決めているか(加古隆風に)

「肚(はら)は?」
ある先生はこう聞くのだそうだ。お前自身の決心、覚悟、心算はあるのか、ということだろうか。「肚」とは武道でよく言われる用語だ。小手先への意識ではなく、最終的に気を傾けるべきところはここになる。言葉ではないのだ。言葉にすることのできない、精神的な部分のことを言う。いや、そうでなければいけない。言葉にするとどうしても取り逃がすことがある。心構えというのは、得てして無形であることを保っていなければならない。もっとも言語化を試みるのを真っ向から否定するのではないのだが、それは本人にとってのキーワードでしかなく、言葉自体にはそれほどの意味はない。込めるのは本人であり、半ばカオスのような領域でできるだけ純化したモチベーションとも言うべきものを可能な限り濾過しようとした結果として、この「肚」があると考えている。ちなみに私の場合、その入り口となるのは「言葉」だ。固い言葉に包むことによって外殻を得、内側のナイーヴな部分を守り、かつ簡単にアクセスできるようにしておくために言葉を用いている。もちろん、今考えてみると、ということだ。そんなことをいつでも考えているわけがない。いや、考えていてはいけないのだ。これはイメージのことであって、ここまで言葉にする必要すらない。言語は不特定多数の者に意図を伝わるようにするための方便であり、決定的なものであるべきではない。よく勘違いされるのだが、私がよく自己分析をおこなう際に専門用語を用いたがる、それが危険だという方がいる。それによって縛られてしまわないかと心配されているようだ。あらためて言っておくが、言葉なんて、要らなければ使わなくてもいいのだ。言葉はツールでしかない。だから使わなくていい言葉は使わない。極力無駄を省き、簡単にすませられればいい。そのうえで、最も自身の意図にアクセスしやすいような言葉を選び出すことを心がける必要がある。何度でも言うが、こんなことすら言わなくてもよいのだ。