シーニュ、しるし

とりあえずシーニュやらシニフィアンシニフィエ、ついでにレフェランやら。
「応答する呼びかけ」(湯浅博雄、2009)では、他者との関わりにおいても、プルーストが表現した記憶の甦りなどと同様に、(知識による理解が)不可能なものとの関わりとなる、という点で話が展開される。


p126、第五章。

こうしたプロセスをなす<時間>は、通常の意味あいでの時間ではない。現在を中心(起点)として等質に流れている時間ではない。そうではなく、<現在が底なしに沈み込んでゆく>ような時間、<現在(における現前性)をつねに欠く>時間である。いわば、リズム、拍子のように、絶えず反復的に生きられる時間である。私が他者の呼びかけに関わる<時間性>は、他者に固有なものの特異性を気づかう限り、現在を中心(起点)として等質に流れている時間ではない。そうではなく、他者の呼びかけ(の密かさ)を絶えず生き直し、繰り返し読み解き、反復的に<また生きる>ような時間なのである。

現在を繰り返し生きようとする、というのは、古来から続く伝統行為の繰り返しを理解するヒントともなりそう。
「沈み込む」ように現在を絶えず生き直すこと。自分の理解できる範囲からではなく、相手の場所から理解しようとすること。


もうひとつ。p128

さらには、次のような点も言えると思える。つまり私の心(言葉)は、他者の心(言葉)へと向かっていくとき、他者がいつも経験(論)的な規定を免れる次元、<超越論的な次元>を有しているということ、私がそうするのと同様に他者は言葉を用い、言語活動を行なうことで<自分に独自の仕方で世界や物事を構成し、意味を与えていること>を、絶えず私の心(言葉)のうちに組み込みながら近づいていくことがありえるのではないか、という点である、このとき「言葉を用い、言語活動を行なう」ということは、判明に区切られた言述を行なうことだけではなく、<無言のまま語る>こと、沈黙に近いなにかのしるしを告げること、あいまいな、微妙な(読むことの難しい)しるし=言葉として表すことも含んでいなければならないだろう。

「しるし=言葉」とは、湯浅氏が「シーニュ」としているもの。解釈は正確だろうか。
他者と向き合うこと、それがいかなるものであれ言葉に基づいていること。倫理的な問題、領野へと向かいうること。