モグラの日光浴

やはりというか、私自身の言葉が追いつかないのもあり、そしてその時々の感覚を書きとどめるためには日々まめに記しておかねば、それらは過ぎ去ってしまうのだ。彼女は、芸術家は自身の発想が枯渇するのを恐れる、と言った。私は芸術家なのだろうか…まさか。少なくともここでやっているのは愚にもつかない感覚を最大限に書き記し、備忘録的に留めておくための作業であり、そして気まぐれに湧きあがった言葉たち、あるいは言葉の湧きたつ状態をできる限り残しておきたいという蒐集癖にも似た妙な態度の所産だというしかない。芸術家、あるいはヲタクなどの代名詞は自称されると同時に意味をなさなくなる。せめてこの渇望がなくなるまで、喉を切り裂くように、臓腑を引きずりだすように何かを留めて置き続けるのが務めなのだ。なんつて。って全然ごまかせてねえよバカ。

現在は移行期にある。今まで8年にわたり住み慣れてきたモグラの塒を抜け出し、陽の当たる場所でツルツルの体――まるで宇宙人のような体――になろうとしている最中にある。住人達は、どうみても分不相応だろ、と断言する。もはや褒め言葉にしか聞こえない。彼らの揶揄は、塒の色に染まりきった私を称賛しているとしか思えない(笑)。現に、引っ越したにも関わらず何度も塒に足を運び、益体もない下ネタを大声で言っては休息をとることがある種の愉しみとさえなっている。実はこんなつもりで移行期を設けたわけではないのだけど、結果としてそうなっている。恐らく集団生活に慣れ切った者にとって一人暮らしはつらかろう、と過去の私は未来の私に温情をかけてくれていた。しかし驚くべきことに3週間ほどで、もうこの新居に慣れてきていると感じる。そうなると、新しい環境では品行方正な姿を、古巣では相変わらず淫猥なことばかり喜ぶ愚劣な姿を、と使い分けていることに今更ながら気付く。いまさら別々の自分がいる、本当の私ってどこ?なんて本気で考えようとは思わないが、それでも何かしらの違和感は残るのだ。バランスをとっているのだろう、とも思う。それで別に問題はないのだけど、それは一体何なのだろうか、と。帰ってレヴィナス入門を読みながら、またもバランスを取っているのだ。なんだか笑えてくる。いったいどちらがいいんですかねぇ、どっちも好きなんでしょうねぇ。ここまで書いておいてもう眠くなってきたのでもう寝ようと思う。明日も早いのだ。詮無いことを言うのは明日だってできる。できることなら、もう少し一人称を使うことを控えようではないか。まる八年前から、ずっと「私は」という言葉を使い続けてきて、その行き場のなさは吐きそうになるくらい知っている。だらだらと尻の穴から油を垂れ流す人生でいいじゃないか。そういえば早く赤目四十八滝心中未遂返してくれねえかな。そろそろ読みたくなってきてんだよ。