捧げもの

ヴヴン。汚物にまとわりつく悪魔の配下の訪れが聞こえる。私は耳を塞ぐ。何ものも私に干渉できぬよう、耳を無益にせしむべく塞ぐ。強く強く掌を押し付けていると、耳の奥から羽音が響く、ヴヴン。背筋に冷たいものが走り、我を失った。耳の奥の渦巻きになった場所がとっさに浮かぶ。あの得体の知れぬものが私の中に巣食って悪魔と連絡を取り合っているのだ。怒りと焦りが入り混じり、私は即断した。
あの日はそうだ、腹の底でボコボコと煮立つ音を聴きながら、非常階段を昇って誰も来ぬだろうその屋上へ向かったのだ。延髄から脊髄へと髄液が急降下する音がよく聴こえていた。魂が地の底に吸い込まれるような気怠さを感じ、私は壁に向かってうずくまる。その静かな歓喜は私の中にじんわりと広がり、ついには劣情を催すにまで至らせる。ああ、ああ、髄液は少しばかり上昇し、肩甲骨の脇から円盤状が同心円状に広がり、私は浮遊してゆく。そして昇りつめた瞬間、その円盤は砕け散り、私は地に叩き付けられる。焼けた槍が頭頂から真っ直ぐに突き立てられ、体中が痺れる。私は物言わぬ肉塊と化し、グズグズと原型をなおも失って行く。地に張り付いた罪人の腐れ肉だ。私はこの感覚を味わうために毎日をこの片隅に賭けていた。その気怠さ、放心していた時に悪魔がやってきた。ヴヴ、ヴ、その途切れ途切れの耳慣れた羽音が聞こえる。蚊よりも鈍重で、蝉よりもねちっこい音をさせて、黒光りした虫が私の耳の傍を執拗に飛びまわっている。私はふいに目覚め、己の罪深さを告げられたように感じ、蕩け果てた腐れ肉はやにわに元の形に戻り、それよりも更に縮みあがった。脅えが漂った。ヴヴン。
またある日、酒の席に珍しく加わったときだ。姦しく騒ぎのなか私は黙々と箸を動かし続ける。ふと左前の丼に目をやると、今にも昇天を間近にした天使が、あの汚らわしい蠅の羽を背に携え、止まっていた。神々しい面持ちと黒く毛の生えた小さな羽根。その天使が私に何事かを囁いている。私は思わず耳をふさいだ。私も蠅に列せられると思ったからだ。マリアの貌をしたベルゼバブの息子よ、私に騙りなど効きはしない。耳の奥に核をもっていることを知っていたとしても、お前に出来ることなど何もない。指を両耳に突っ込むと、どろりとした生温かな液体が指から手頸へと滴り、その場は悲鳴と慄きに満ちた表情で埋め尽くされた。
あれらの事があって以来、私は常に身の回りを美しく保つよう心がけている。体は念入りに洗う。彼らが寄り付かぬよう、薬を肌に擦り込む。それでもなお塗り忘れたところを狙ってくるはずなので、防護服で身を守っている。それなのに、それなのにだ。彼らは私の耳元で呪文を囁く。指先から黒く太い毛がゴワゴワと生えてくる。指さえも細く黒ずみ、口元がワシャワシャとする。防護服を脱ぎ捨て、菜箸をつかみ取って私は彼らの塒(ねぐら)に向かって思い切り突き立てた。鋭い痛みとついに解放されたその恍惚の中で、私は深い眠りに就くことが出来た。あれ以来私は心安らかである。