うろん

朝は肝心である。一日の精神状態を決める要。夢と現実のあいだをさまようための時間。自らから湧き出るイメージ――妄想、妄念を切り離してはならない。意識的に「考える」のではなく、湧くがままにさせる。どのような嫌なことも、どのような喜ばしいことも。いかなる秩序ももたず、思わせるがままに。そう、これはゴダールの映画にも特徴的だった。彼の秀でたところのひとつに、抽象具体の別を問わず、また規則性もそれらしいものも現れたと思った瞬間に別の形へと移行させているという点がある。先日の『ゴダール・ソシアリスム』『JLG/自画像』鑑賞から。さてこれを続けると、自らの意識的な態度が先行しはじめる。その「可知的」と思われるものを早々に切り離し、言葉にならぬもの、曰く言い難いもの、イメージにもなりえぬものをすくい取ろうとする。「分かる」というのは楽なものである。往々にして、「分かる」とは「分かった気になる」だけのもの。世の諸々の価値体系さえも、すべて砂上の楼閣。この世にあればこそ、我々の“可知”体系に則ってこそ。ただそれだけの代物。その「分かる」ことを放棄し続け、恐慌へと手を伸ばす。昨日は、その上で踊っていたのだ。浮かんでくる言葉、そしてそれが論証不可能かつ無価値なものであることへの恐れ。むなしさ。社会的な無価値さと、歴史的な無価値さ。人間が居てこのかた、誰かしらがいつかどこかで必ずおこなっているだろう、と。自分の発見など、他者の発見を私が別の在り方で再認しているだけのこと。新たなことなど、ない。

目の前の横断歩道をレインコート姿で横切る男の姿に、既視感というかその人の見た風景・体験が存在するということを直観する。いや、ごく当然のことだ。私以外の人間の体験や風景が私のなかに入り込んでいきそうになる、というもの。別個の体験が、これまでもこれからもずっと存在し続けているということへの驚き。また、目の前に白い線、月姫で言う死線のようなものが一筋見える。光の加減かすぐに消える。その線をどうこう言うのではない。自らの体験ではない体験が入り込んでくるとは、いったいどのような体験なのだろう。