ひどい文章、読めない文章

よくある話だが、一見小難しそうな文章はまず疑ってかかるべきだ、というのだ。やたら熟語を使いたがる、韜晦な表現を好む、重文的なのを避けようともしない。多くの場合、よく読めばそういったものは文章の構成、いや一文自体の文法さえも危ういことがわかるだろう。もっと簡単に言うと、自分が作った文章に自分のおつむが付いていけてないのだ。自分で保証できない文章を自信を持って書くなんて気が痴れている。バカだということを余計にばらしているようなものだ。ひどいときは誤字脱字まで大量に見つかる。専門用語は誤解されたまま使われているか、一般的な表現方法にのっとっていない場合だってままある。その言葉はいったい何のために使っているのか?オナニーのためだろう。そうだろう。試しに1コマ想像してみるといい。一心不乱に性器を弄くりながら、どこを見ているのか分からないうつろな目で何かをつぶやいている。その吹き出しに自分が書いた文章をそのままコピペしてみると、自分がどれほど糞がつくほどのたわけであったかわかり、空しくなるだろう。・・・しかし、本当に、大方の文章にそれほどの生産的な意味はないのだ。それどころか、ある場面ではほとんどの言葉が、論理とも呼べない論理の形をした文章のようなゴミクズでしかないことを否応なく暴きだされてしまう。
何度も何度も私自身言われてきたことだが、とくに理系にとってone meaning, one sentenseは鉄則らしい。これは見習わねばならない。自分の言っていることを複雑に、より情報量を込めようとして陥りがちなのが、先にあげたような3つの例えと、あとは長ったらしい文章だ。これを書くことで自分が賢いと錯覚してしまう。特に若いうちはそうだ。意味のわからない文章を書いたところで、大した内容にはならないのだ。読む者にとって時間を無駄に費やさせるだけだ。何度だって言うが、われわれの頭はそんなに賢くはないのだ。「変ゼミ」の加藤あんなのように“なりきる”ことだって簡単には出来やしない。わかることを、わかる言葉で書くこと。常に念頭に置いておかねばならない。そしてその積み重ねによって、世界は形を為してくる。だから、分かったふりも全然だめだ。なぜそれがすぐにばれるのか、自分のものになっていないとわかるのか。それは、端的に言って自分の言葉になっていないからだ。用語の誤解は簡単に生じる。自分さえ気付いていないことが多い。内容がわかっていれば、圧縮することも増幅することも可能だ。
なぜ、自分を自分以上の何かに見せようと無駄な努力をするのか?もちろん、戦略は別だ。「無駄」どころか、それは危険ですらあるかもしれないのに。
そして最後に、「自分が頭悪いからこの文章の意味が分からないのでは?」と思っている方も多いことだろう。誤解を恐れずに言おう。それはそんな文章を書いてるやつのほうが悪い。