信用の失い方

<追補>前回のエントリ「ひどい文章、読めない文章」を挙げたところ普段よりもページビューの数が増えたため、少し煽るつもりで書いてみた。前回のエントリを書いたあとに続く話もあったのだろうけど、いかんせん時間がなくて続きを書く気も失せてしまった。今も時間がないのだが、とりあえずこんな文章をあげてみよう。益体もない話しだ。

“信用をなくすことなんて簡単だ。崩すことのほうが作ることよりもどれほど簡単なことか”このような物言いは得てして説教臭くなるのが関の山だ。もちろんここでその流れに逆らおうとは思わないが、体験的に皆知っているだろうことを最近私もひしひしと感じている。そう書きたいだけだ。
簡単なことだ。今まで信用されてきた場面で「やりますよ」と臆面もなく言ってのけ、そのあと何も手をつけなければいいだけの話だ。「出来てますか?」という質問には、「ん〜ちょっと難しいですね…」とお茶を濁し、ギリギリになってまた「どうなってますか?」と聞かれた時にはだんまりかバックレをかませばいい。そうすれば信用は確実に落ちる。一回程度なら許してくれる、というのなら、もう一回やればいい。今度はもっと大きい仕事だ。「今度こそやります!」あとは計画書ごとゴミ箱に捨てれば立場さえ失うことだろう。積み上げてきたものなんて、自らババをかけてやればあっという間に価値を失ってしまう。そんなものだ。
昔から私は、自分がどんなに積み上げてきても、風が吹けば跡形もなくなってしまう、と本気で思っていた。自分ができることなんて、いやできることだからこそ価値がない、とまで考えていた。今でもそうだが。いかんせん人は年を重ねるとそれなりの社会的価値なり意義なりを纏うようになるものだから、そんな儚いことを忘れてしまう。こんな考えはナイーブでさえあり、「虚無的」なんて呼び方で憐れむこともできる。しかし、事実そうではないか?誰でも知っていることなのだ。ただそれにあえて言及しないのは、この行為を実際にやる価値がまったくない、というただ一点の理由を持つからである。社会的価値を持たないことを命題にするメリットはどこにもない。そのような考えは危険思想か中二病の所産だとみなされる。この事実は、あえて口にすることがあれば先に挙げたような教訓めいた説教臭い言葉になるだけだ。もちろん、それを腐すつもりは全くない。教訓は、事実、社会的な存在として認められている者にとっては守るべきことだ。ただ、それでも私の背中にはこの冷たい風が吹き荒んでおり、これをとどめることができないでいる。生の真裏には、死がいつも同居しているように、信用の裏には破滅がつきまとっている。どんなに有用なことをやっていても、どこかで私に囁くものがいる。「そんなに頑張っていても意味なんかないよ。」仮構された信念の底が、一気に脱落して真っ黒な口を開く。もう、やめてしまえ、と。