積ん読ライシス

よーしいいかそのままで聴け。積ん読なんてやめてさっさとその棚に置いてある本棚の肥やしを銭に変えてこい。「あーそうだったんか!その本俺も持ってたけど読んでなかったわ」って読めよ。さすがにもったいないよ。紙媒体とは本当におそろしいものである。自分のたもとに置いとくだけで自分の目的が達成されたような気分になるんだからな。あまつさえ自分が知識自体を揃えたような気分になってくるんだ。こまったものだ。本なんて手段でしかないのに、買うことが目的になっていることに気づかないんだ。往々にして。以前はよく男のほうがコレクション傾向、蒐集癖が強いと言われていたけど、実際のところ本ではなくとも何かを集めまくってそれで満足している女子も多いことだろう。なんにせよ、それはすでに「壁」であると言っておいた方がいい。
「……(中略)……>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>>>>>>>>>>>>>……(中略)……」
壁とは、自分が気付かずに抑え込んでいるもののことを指している。心理学っぽく分析すると、それは抑圧であるとかなんとか言われるが、とどのつまり「積ん読」なんて行為は本集めに名を借りた何かの代償であるかもしれないのだ。本来読むことを目的に勝った本が読まれずに積まれているという事実は、本人が本達に何か自分の望んでいるものを映し出している、と言えないか。たとえば、私の知っている不法滞在中の外国人はゴミや古新聞を集めて山のように積み、「私の研究材料だ」と言ってはばからない。私から見ればあんなものは“自分の城”づくりそのものだ。研究をやっている、と相手にも自分にも言い聞かせ、いや口実にして、もっと言うとだまくらかして自分の場所を作っているに過ぎない。私の空間も本に囲まれている状態だが、これも言ってみればプライベートな空間を作る行為に他ならない。私的空間を守るバリケード、そして勉強しているという口実/ハッタリ、こうやっていくつかの意味を担わされた空間は醗酵する。自分がかけた呪いの場となる。自分をそこから解放させなくする。縛り付けてしまう。私的空間には自分の大切なものを置くだろう。この空間が確保された瞬間に、そこは建設的な意味ではなく、なにかいかがわしげな行為を行うための空間となってしまう。もはやそこに積まれた本たちは読まれない。だからよほど読みたくなった時は、そこではなく別の場所に持っていかねば読まれることはないだろう。そんな機会も実はほとんどなく、図書館で借りたりして別の本が読まれることになる。実際のところ積ん読をされている本たちは読む価値がないのだとも言えるのではないか。偉い先生たちですらこの行為をやっていると言うが、さすがに自分の専門分野の本は、おそらくそれほど積ん読要員にはなっていないことだろう。
ここまでグダグダと書いてきて、分かっている方は戯言であることも御承知だろうが、つまり積ん読とは、内容には目を向けられず、自分の愛とも言えるような欲望を勝手に担わされた本たちの墓場であるのだろう。自分自身が勝手に作った幻想を打ち壊されないように何重にも何重にも積み上げ、しかし、ここは重要かもしれないが、自分が本当に腐ってしまわないために次々と新しい本たちを犠牲にすることで、なんとかある意味社会的な理由づけをしようとしている。自分は本を読んでいるんだよ、勉強家なんだよ、色々なことに興味を持つ向学心旺盛な人間なんだよ、と。他人にならまだしも、自分に嘘をついてどうする。そんな本はさっさとブックオフに持っていけ。
発想の転換が必要だ。本は吸収されるためにある。参考書を食べて覚えたという往年の受験生、彼らは勉強内容をまさに「身につける」ためにそうしたのだ。積むくらいなら売れ。売りたくなければ読め。読みたくなければ捨てろ。絶対積むな。積んだ瞬間に本はその価値を失う。こんな言葉もかつては言われたのだ――「本当に読みたい本は借りてこい」と。