林檎とことば

若き研究者の、ことばに関する論文を読んだ。彼の言わんとするところは端的であり、そしてその結論に至るまでの論理展開は美しい。軽音楽を今もやっているのか、彼の紡がれる言葉はリリカルで、美しいと思わせるだけの信念がある。私自身が今ここで多言を費やせるほど余裕がないのが残念だが、古き学者の対話をめぐって現在にその息吹をよみがえらせ、更に自身の視点を有意に貫くその強さは見習わねばならない。彼はそのロックな服装と違い勤勉であった。自身の見ている先があった。言葉を濁し――それは自身の畑を見つけられ、汚されることを厭う狭隘なものではなかったことを今では望むだけだが――口ごもる彼の先を、どうなるのかと自分のことも棚に上げて心配をしていたが、こうやって上梓された論文を読むと、そこにはもはや羨望や嫉妬ではなく、彼の達せんとする想いがとても感動的にすら思えてくる。
こんなことを考えてしまうのは、その後にあすなひろしの文庫『林檎も匂わない』を読んだからだろうか。彼の絵は手塚治虫に似るところが確かに大きく、あるいは同じ時代を歩んだ者の同じ姿を纏っているのではあるが、しかしそこに通底する“抒情的な”風景と言葉の連なりは、ところどころ解しかねるそのコマからでさえ湧きあがってくるのである。何かしら自分の王国を創りたいと望んだ御大のそれとは違い、あすな氏の物語は自身の内奥を突き上げてくるその想いを絵に託し、訴えている。林檎も、匂わないのだ…その終局は、哀しくも衝撃的であった。なぜ彼はそうなってしまったのか――と聞くわけにはいくまい。その問いは私の中に秘め、なぜ、と折あるごとに泡のように声を上げるのだ。彼の論文、そしてあすな氏の作品には、どこかしらリリカルな様相がある。それは芸術に身を置くものの宿命だろうか。賤しく救いを求め、虚ろに呟き続ける私とは違う、美しさがあった。