先づ隗より始めよ

で、何がしたいのか、という話だ。


この時点では限定された条件のもとで人はその潜在的能力、すなわち可能性を現実のものにすることができる――そういったことを主題に考えてみたい。
“追い詰められると本領を発揮する”というのは当然誰でも知っているはずだ。窮鼠猫を咬むなんてのも好例で、その昔からこういったことはまことしやかに伝えられている。しかし、それを実感として得られる機会は少なくなってきている。それは物質的にも精神的にも一定程度の豊かさが大方の人々にとって保証されているからだ。手癖で何とかできるだけの豊かさはある。極限状況なんて考えもしないだろう。そんなときに思い出すのが、昔から人気を得ていたジャンプ系のマンガだったりする。限定条件で発揮される能力――若者はそこに魅力を感じるのかもしれない。もう少し、真摯に自分というものを考えてみる必要がある。そして、自分に何ができるか・できないかを知る。そこにある種の真実が宿る。もちろん必要がなければすることもないし、この提案もただの戯言(たわごと)、囈(うわごと)で終わる。また、こんな当たり前のことをわざわざ口にする者の青臭さを笑う人もいるだろう。しかし、常に忘れられ易いものなのだと思う。なぜなら、そんな空想の産物を追い求める前にやらなければいけないことは目の前に山積みになっているからで、目に見えることの方がはるかに分かりやすいからだ。目に見えないものこそ追い求める価値はある。同時にそれは、案外自分の近くに転がっていたり、実はとうの昔に自分が知っていたことでもあるだろう。見えなくなっているのだ。日々の泡*1の中で。見えなくなっていることを人は「潜在」と言う。何のことはない、気づいていないだけだ。目を背けているだけなのだ。入口があまりに小さいものだから、見えたとしても、気づいたとしても、途方もない困難を感じるのだ。

「狭い門から入れ。滅びの門は大きくその道は広い。そしてそこから入って行く者が多い。
命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者は少ない」
(マタイの福音書,7章13節)

何がしたいのかなんてすぐに分かる。自身を過不足なく正当に評価することができれば、本質は直観によって観取されるだろう。武道では初志貫徹という。初心忘るべからずという。受験のための言葉ではない。年を経れば経るほどに、このシンプルな言葉の重みがのしかかってくる。初心とは即ち直観である。初めに頼れるものは直観しかないからだ。徒手空拳で信じられるものは、己だけだ。


そして面白いことに、人によって初心の中身が違うのは当然だが、それ以上に年を経るとアプローチも、そして得られるのも変わってくるのである。もちろん本質は同じだ。しかし、その時々によって当人にふさわしい形は異なってくる。これには二つの意味が考えられる。まず文字通りに、本質が一つであってアプローチが多様であるという見方、そして本質は深められるという見方。ここに来て“道”という言葉が大きな意義を持つ。答えはまさに、“一つ”ではないのだ。より正確に言うと、一見一つのように見えるものも、深められるごとにその諸相が現れるということだ。簡単にいえばレベルが上がるということでもあるが、つまりレベルを上げるということはその道を極めるということだ。何でもやりっ放しなのは、レベルが上がるとは言わない。本質は突き詰めていくと、その剥き身の姿をより現す。その場その場で得られたことはすべて真実であり、真実を積み重ねることによって核心へと近付いていく。それが“道”だ。「本質」の形質は本来無形であり、しかし現実に得られるものは多様である。一は多であり、多は一であるという。どこまでも辿りつくことはないが、得られるものは実感としてある。その積み重ねこそが重要なのだ。


何度も言うが、ここにはしかし困難が伴う。見出し難く、得難いからだ。日々の泡に塗れているだけでは得られないものがある。自分が見失っているものを、自問してみるといいだろう。自分は何をしたいのか、と。正当に自分を過不足なく評価し、そこから始めていくものだろう。先ず隗より始めよ(十八史略または戦国策)。

*1:1947 ボリス・ヴィアン L'Écume des jours ……なんてのもある