文字追いの愉悦

実際なぜそんなに文字を追い続けるのが楽しいのかと言うと、そこには知らない世界が満ち満ちているから、と答えるしかない。本を読むのが苦痛だと感じるのは端的に言うと意義を見出せていないからなのだが、楽しくないと言うのは本当に悲しいことだ。私が拝読していつも書を読むことの愉しさを再発見するのはkebabtaro氏のshort hopeだ。ブログは確かに自分の些細な言葉を発信する便利な道具ではある。しかしその便利さゆえに当人の当人による当人のための(つまり内輪の、と言いたいんだけど)こなれていない言葉を何の抵抗もなしに発するのだからたまらない。読む側の身になって欲しいのだけど、そんなこと本人にはどうでもいいことだ。だからその行為は循環する。しかし、このブログはどうも私にとって魅力を放っている。この「放っている」というのが大事だ。もちろん「放っている」と感じるのは自分だ。氏は独り言のつもりで綴っているのかも知れないのだから。しかし私はプロフィールの創業以来云々というくだりに賭けよう。発信なさったもの受け取っていますよ!と言おう。ラブレターかこれは。もう一つ、自分に無いものを持っていること。自分が欲しいと思ってなかなか手に入らないものを持っているということ。kebabtaro氏の広範な関心、その引出しの多さ、観察眼の多さ鋭さは私にはない。だから私は。所帯じみた生活世界のこの端々に知が溢れて来るこの愉悦。平板化しそうな現実を打破してくれるこの感覚。つまり劣等感をくすぐるこの瞬間。とてつもない魅力である。私は性的倒錯を暴露しているのではない。そう、このブログを読むと本を読みたくなる。棚とその脇に無駄に詰め込まれ、重ねられた本達が私を呼んでいる。「呼んでいる」と感じるのは自分だ。現実から目をそむけ、知を言い訳に逃げ出そうとしている鶏野郎の方便だ。
今回は輪をかけて身も蓋もない話でいやになる。つまり私は知性に劣等コンプレックスを抱く鶏だ、という話にしようか。誰もそんな話聞きたかねえよ。