児童一時保護一件:レヴィナスの「顔」へ

一瞬を、現前するその瞬間を、自己の主体的様態なきまま脅威にさらされ続けるとはどのようなことなのだろうか。


それぞれ家庭の抱える問題により、一時保護されてくる児童に私は何もすることができなかった。それは私はアルバイトだからという理由だけでは片付けられない。私は人とかかわることを根本的に恐れているのだ。人を信じるという以上に、外的刺激として最も驚異的な「生(なま)の存在」が私に何のためらいもなく迫ってくる。これほど恐ろしいことはない。私は彼らに語りかけるとき、もはや規則そのものとして居ることができない。彼らがまだ眠くない、と言えば「もう少しいいだろう」と妥協して引きさがる。そして最も問題のある児童に向かった時、この問題は最も露わになる。彼を落ち着かせることができない。今までなあなあにしてきたことの責任を突き付けられる。「お前小学生には甘くしといて何でおれには早く寝ろって言うねん。ほんまうっとおしいわ。なあ?こっちこんといて」今までの穏やかな時間が、蹴り飛ばされたドアの激しい音で引き裂かれる。私は勝手に不問にしていた責任を全面的に問われる。頭の血流が一気に激しくなり、脈打ち、ちりちりと血管が焼けつく。自分の無能さを突き付けられる。徹底的に糾弾される。逃げ出すことはできない。ある児童は、私の蒼ざめて卑屈になり下がった表情を一瞥して、鼻でせせら笑う。ある児童は、怒りのまま私に唾を吐きかける。年端もいかない小学生たちは、その光景を眼を見開いてじっと見つめている。自分の無能さを突き付けられる。屈辱というのは、本来あった自尊心を砕かれたことに対する怒りが滲んでいるが、私にはその怒りすら持つ権利はない。規則を守り切れなかった自分の責任を全的に負わせるしかない。苦しい、という言葉さえ浮かばない。この場所から逃げたいが、しかし逃げられない。この恐怖にも似た感覚。逃げだすことはできないのだ。


思考することもできず、帰途につく。そこで私はやっと、あの体験がなんだったかを問い始める。私にはもっと苦しみが必要なのだ。「苦労は買ってでもしろ」という無責任な言葉では言い表せない。この一年間、私はあの場に慣れることはできなかった。一度一度が試しの場であった。マニュアルでは児童の付き合い方など分からない。一瞬一瞬が変化し続け、イレギュラーであった。私がしっかりと規則を守っていられなかったことも問題の一翼を担ってはいるが、それ以前に私が基本的に「攻め続けられる」ことが決定的な原因であった。主体的に問題を自分の言葉でとらえることを放棄しているのだ。いや、主体的であることはできても、あの場を定形化された言葉で解釈して、おしまいにすることなどできはしないのだ。児童の言葉は一つの事実・現在に対し、さまざまに言い分を変えて現れる。何度も語られるうちに姿を変える、では一体何が真実であるのか。ただ一つ確かなのは、そこで起きたことだけである。その核心には、決して触れることはできない。何度も何度も語られ、それでもなお求めるものは得ることができない。私も、突き付けられる現実に確信をもって臨むことはできない。ただ、そこに身を投ずるしか選択肢はないのだ。


「君は、高い知識を大学で学んでいるんだろう?それをいったいどこで使うんだね」「この場です」「そうだろう。研究者になるのなら話は別だ。教授なんて何の役にも立たないことを講義していれば金が貰えるんだからな。君は研究者になるのか、それともこういう場で働くのか」……
確かにそこに偏見はあるが、しかし真実を突いているのではないだろうか。言葉では捉えられないことは、この世に数多ある。私はそこから逃げているだけなのだ…。人とかかわりたくないから、研究者などとうそぶいているのだ。もっと苦しまねば、無能の私に学びとれないことが数多ある。しかし、私はここでレヴィナスの志向性に思いを馳せる。これが「顔」(visage)と言うやつか。捉えることのできないものに向き合うしかないという事実、これが現実と言うやつか。実践の場に立っている人は、学問の徒を嘲笑う。彼らの大半が、現実という捉え得ないものに向き合っていないことを看破しているのだ。


実践の場に壮年期まで身を捧げ、後に強固な理論を築いた人は少なくない。そこには実践に基づいた強みがある。たとえどんなことがあろうとも、私は現実から逃げ出すことはできない。苦しみは、安楽のために求められるのではなく、その不意の、突発的な瞬間に現れるのである。それが後で得難い経験であったと語ることはできるが、その体験している瞬間は、まさに苦しみの渦中にあり、言葉にならない世界を生きるしかないのだ。望んで得たもので己の身になるものは本当に少ない。期せずして己を苦しめるものこそ、己の身に深く刻まれて私独自の姿となるのだ。現実、「顔」の体現者となるのであろうか。そのため、一瞬一瞬が己の現実だということを忘れてはならない。「先見の明を持つ者」の呼名を持つプロメテウスの世界では、真に現実/世界に向き合うことはできない。想像できないもの、捉え得ないものとの出会いこそが、己に深く刻みつけられるのだ。