方法・その一

これらのことはいずれ時が来れば身をもって知ることになるだろう。私はそれを言葉という比較的強度を持ったものに託し、先に委ねる。

ある場においての論理は、他の場における論理でもある。これは政治的な意図の元でなされる物言いではない。すべてそうなっているのだ。これは対象物を注視することで見出されるのではなく、より視点を変えて臨まれる必要がある。そう、山の頂上にて街並みを眺めるように。だが、こういった行為は言葉にするほど容易ではない。核心を突くこと、真実を見抜くこと、本質を捉えること、これらに最も大きな価値が寄せられているように、それを為すこと能う者は有能の称号を与えられ、あるいは狂人と見做される。翻って言えば、その他の者には核心を捉える能力が備わっていないということでもある。彼らが「真実」を得ようとする時、途方もなく膨大な営為と努力を費やすことになり、その結果に行き当たるのは一瞬先かもしれず、死して魂がその形を失うだけの期間を経てもまだ足りないのかもしれない。持たざる者にとって必要とされるのは、その無益な努力しかないのである。一つも見失わず、一つもこぼさず、ただ掻き集めてその一瞬に向かうだけである。それでも持たざる者は自ら得たものを失っていく。意識を持つ者、あるいは意識そのものの「仕事」である。しかし、中には持たぬ者であってもそのような無益な行為なくとも道をたやすく看破する者がいる。それは、目に見えることしか信頼を置くことのない「意識」とは異なり、その他知覚できぬことさえも価値づけることができるからである。その要素、またはそれそのものは「無意識」とも呼ばれる。あるいは「才能」とも呼ばれ、いずれにせよ「意識」が十分に名指して呼ぶことのできない複雑かつ不可視な要素によって構成されている側面であり、そしてそれを十分に受け容れることができる可能性を持っている者が、核心へと容易に向かいうるのである。またこの「無意識」等と呼ばれるものは生来的な素質ではあるが人はこれを十分に扱いうるわけではない。つまり膨大な営為の果てに得られるものでもあり、あるいは何の前触れもなく現れ、時にはすでに現れているものである。