流動的、非-主語的

今日、どのように考えても、実践における文法は極めて動詞的なものだ、と思えて仕方がなかった。いや、非-主語的と言った方がよいのだろうか。…する、ということによってのみ行動が成立する、と。そこで、それは何々だ、と名付け、分析・解釈を行ったところで現在のこの場にその理解の仕方が適用できる可能性はあまりにも小さい。ケースバイケース、とも言う。机の上で現場が分かるか、とも言う。現場、実践とはきわめて流動的で、その場の経験を活かして動かなければならない。だから、2年前に私にあの人は言ったのだろう。

「君は、高い知識を大学で学んでいるんだろう?それをいったいどこで使うんだね」「この場です」「そうだろう。研究者になるのなら話は別だ。教授なんて何の役にも立たないことを講義していれば金が貰えるんだからな。君は研究者になるのか、それともこういう場で働くのか」……
http://d.hatena.ne.jp/obsessivision/20090413

アカデミックな場では、「何か」について検討を行う。そこでの試みは、どうしても事象を対象化する方に流れていってしまう。まるで、私とは全く無関係の出来事だと言わんばかりの距離の取り方。「私」が必ず安全圏にあり、かつ「私」の言葉で十分に理解ができるような方法。私に引きつけて考えることのないやり方。モノを対象にしている場ならまだいい。人という度し難く理解できない存在を相手にする“臨床”で、それが「私」のになりうるのだろうか?
そう、糧(かて)。いったい、どのようにして身に付ければよいのか。今日、それに資するかと思われるのは、「動詞的」あるいは「非-主語的」というアイデア。“それ”という第三者を無前提に措定するのではなく、まず“私”がどうすべきなのか…。おそらく、私はすでにどこかで言及しているのだけど、ただ、気付いていないのかもしれない。


そして、今なお頭の中で巡り続けている「コストエフェクティブネス」「再現可能性」。前者はまあどうでもいい。目的を明確にして、現実に価値あるものとするよう検討すればよいのだから。後者は、もっとたちが悪い。人間の行為に再現可能性を与える、ということを考えているのだが、そんなことできるわけねーだろ!!ってなもんだ。だって、対象化しなければ一つ一つの行為は理解することが難しいのに、この生身ときたらその一瞬一瞬でコンディションが異なっているのだ。対象化さえできない。つまり、いくつかのファクターに分けても、そのファクターが想像できないような変化をしたり、同じ変化でも原因がまったく分からなかったりする。仕方ないから再度ファクターを検討して、再試行だ。そうするとまた別の変化をしやがる。今回は目的を達成したはずなのに、まるで別のファクターが紛れ込んでいる。ああ、もう!!そんな感じで、あるとき、ハッと解決方法を思いつく。しかし、これはどこまで適用可能なのかは分からないのだ。確かにうまくいくのだけど、それを一般化することには極めて疑問が残る。
こんな調子でイラつきながら、日々は過ぎるのだ。だから何度も繰り返すように胸の中で言い続けている。それ、本当なのか?あんたが言ってること、別にあんたの場合だけだよね?おれに押しつけないでくれるかな。もっと考えてよ。……八つ当たり以外の何物でもない。そもそも、思想の姿をしたものがごまんとあるのに、その全てを説明しようともせず、なんであんたの言ってることが正しいなんて言えるんだ?おれは、あんたの言ってることも信じないし、自分がよりすがっていることだって信用しない。
だから、ああ、もう終わりにしてほしい、と思いながら、それでもまだ私は考えることをやめられないでいる。それが愚鈍な自分の、精一杯の復讐でもある。自分の髪をひっつかみながら、どこまでも引きまわしていく。てめえが自分のケツをぬぐうことができるまで、やめない。


話が逸れた。ただここで言いたいことをまとめるとするなら、その場で何事かをするとき、一歩退いた場所から何かを眺めるようにして行動するのではなく、起きたことを理解して臨むのではなく、まず前倒しにしてでも動かねばならない、ということなのだろう。そんなことにしか、結論がいかないのか。まだ足りないだろ!!