『2001年宇宙の旅』、あること。

昨日の映画は、本当に恐るべきものであった。1969年に上映され、以来傑作と呼ばれる作品群に並べられてその名をとどろかす『2001年宇宙の旅』。今までこれを見たことのない私は、本作はハードSFの最高峰であり、徹底的に仮想された世界を論じ果てたがゆえに、高い評価を得たのだと本当に思っていた。もちろん、見ようによってはそうなのかもしれない。しかし私の目に映った内容は、それよりもはるかに別の次元へと向かおうとするかのような、きわめて異様な姿をしていた。私は、観ていて本当に「こわい」と思ったのだ。


前半の若干中だるみするかと言うところで1分弱のまどろみに襲われ、何度かうつらうつらしていた私と、その隣で見ていた友人。<INTERMISSION>の表示がされると、私に向かって「面白いねえ」と目を輝かせて言ったのだった。たしかに、前半の描写も驚くシーンは随所にあったように思う。そう、冒頭のオープニングからすでに“傑作”の予感を十分にたたえていたのだ!!私はこの映像を忘れることがないだろう。そして猿人、いや、いまだサルだった彼らが動物と共に暮らしていた時代。肉食動物に怯えて夜を越していた時代。あの映像はどうやって作ったのだろうか――そう、この作品が40年も前に作られたことを思うと、その技術は不可解なほどに高度であると思われてならない。そして、モノリス。その威容。猿人の頭に焼き付けられた、彼らにとって異次元そのものである抽象的な姿が脳裏をよぎる。そして骨器が発明される瞬間は突然に訪れるのだ。


なぜ私がここで驚いたのか。それは、この作品をキューブリックと言う名高い映画監督が作ったと知っている私が予定調和として驚いて見せたのか?違う、と言いたい。そうではない。思い出してもらいたい。この、サルたちの進化劇につづく一連の物語は、一切の言い訳をしていないのだ。単純に、ナレーション、説明のための映像といったものが排されているということでもある。また、それゆえにキューブリックが提示して見せる進化論の仮説提示が大胆さを過剰に帯びていたということでもある。真っ黒な毛に覆われた<サル>が高々と骨を振りかざすように、監督はものも言わずただ激しく堅い映像を観客に振り下ろしている。打ち据えられた私たち観客は、まるで骨器で突然殴られたサルのように、初めての衝撃への戸惑い、恐怖に共に襲われるように、その一振りで頸の柔らかい部分を損傷させ、意識を失ってしまう。


さて、中盤を簡単に振り返ろう。そこでは、“Heuristically programmed ALgorithmic computer”の略で、IBMを一字ずらしたと噂されるHAL9000との対峙がメインとなる。人間の思考を模倣し、完全に理性的判断を下すことを求めて作られた人工知能。HALの判断には誤りがないし、あってはならない。誤った判断を下すことは、HALが“狂気”に陥ったことに直結する。以下のくだりもまた、驚くべき点の一つである。彼がデイヴ・ボウマンに機能を停止されようとするその間、彼の言葉は次第に感情を帯びていく。そして彼が発するのは、「怖いよ デイヴ」。・・・・・・「私はHAL9000…(忘れた)…歌も覚えました」――この言葉が現れるまで、デイヴは一言も発さない。その冷静さ。彼はHALに妨害されてもなお、表情を少しも変えず一点を凝視し続け、淡々と彼を「殺し」に向かうのだ。ロボットでありながら、感情を持つものへの感情とは、どのようなものなのだろう?そこで揺るぎなく見せつけられるのは、デイヴの恐ろしいほどの冷静沈着さである。


そして、後半。HALの機能を停止させた彼は木星へ向かう。彼の観るのは宇宙世界、そして、光の波、渦。反転して映される風景(ここでデイヴの反転する瞳は「新世紀エヴァンゲリオン」に引き継がれたのだろう)。今までハードSFだと思っていたものが、突然異常な光景を映し出す。私は、そのとき自分が何を見ているのか分からなくなってしまった。私は何を見ているのか、私は本当に頭がおかしくなってしまったのではないのか?!あまりに不安で、何度も周囲を見回した。観客は1人残らず、沈黙してスクリーンを見続けている。私は恐慌に陥る。何が起こっている?いや、もっと現実的に、冷静に考えてみようではないか。もし、もし仮にだ、私が観ているのが間違いなくこの映像だとするのならば、・・・・・私以外の人々は、私が今まで考えていた以上に頭がおかしい狂人としか考えられない!!!!私は、とたんに恐ろしくなった。なぜ私が今までこの作品を見てこなかったのか、私以外の、「2001年〜」を観た人々は、この狂気を抱えて成長してきたことになる。私は、わたしは??わたしは、こわい。スクリーンが直視できそうにない、――いいや、まだだ、まだ何も私は分かっていない。しばらくすると、球体のポッドは真っ白なロココ調の部屋に着陸している。いや、「既に居る」。そして忽然と現れる、船外で宇宙服を着たデイヴ、部屋で食事を取るデイヴ、体を起こすこともかなわない程に老いさばらえたデイヴ。ゆっくりと指さされる先に、佇立する「モノリス」・・・・・・そこから私の記憶はあまりない。胎児と地球が対象に向かい合い、暗転し、音楽が何分間も流れていた。足を苛立たしく揺らしてもまだ落ち着かなかった。私が観ていたものが何だったのか理解できない。もし、これがいわゆるSFと呼ばれるものであるのならば。もし、これを皆が観て、理解していたとするのならば。私が今までたどってきたあまりにも緩慢な思考の跡は、後にも先にもまったく存在することさえも許されないほどの矮小さしかなかったことになる・・・。


帰り道、あしがもつれる。友人は黙って私の前を歩き、館外に出て何事か私に言ってくれるのだと思っていた。それで私はどんなに救われる!そう思って彼を向くと、彼はスタスタと自転車に向かって「じゃ、帰るね。感想はレポートに書いて送ってね」――!!!! 


あのときほど混乱したのは本当に久しぶりだった。半日以上、私は正気を取り戻すこともできなかった。
なぜ、あれほど私は混乱したのだろう――?あれからひとつのサイトを読み、今ここで感想とも言えない文章を書き続けている。そのサイトでは、この作品に幾十通り、何万通りの解釈が見出される可能性を挙げながら、「真実を発見した」と断定していた。この筆者も、もはや狂気に取りつかれたとしか思えない。考えてみれば、他の人々が『2001年宇宙の旅』を観ていながら、後半にあたる内容を伝えてくれなかった*1のは、あれは、「人に教えてはならない」内容、公的な映像で在りながら、きわめて私的な体験であることを示しているからに違いない。この作品こそ、私たちは、1人1人の何かを開く「扉」として体験する必要がある。……いやいや、これは、本当に恐ろしい映画だ。核爆弾のような狂気が世界の中心に放り込まれたようなものなのに、なぜ皆平然としていられるのか。私は、これまで一体何を観てきたのだろうか。あれは、いったい、なんなのか?なんだったのか?名づけようのない混乱を呼び起こすものが、(私が今まで構造化されていると思っていた)社会に当然のように収まっている。それが、ただ、こわい。*2 *3

*1:伝えられなかった、とも言う。一部の鑑賞者は口を揃えて「退屈だった」、「意味が分からなかった」と感想を述べる。ああ、私はここで若干救われた気がしたのだ。あの映像を分かっている人々は、私が思っているほど遥かに「少ない」のだ――まだ、世界は平和で、変わらず閉じている。

*2:2001年宇宙の旅』、これは私の記憶に長い間刻みつけられることだろう。トラウマのように、意識の縁を引き破って大きな裂隙を作られたようで、しばらくの間、会話もままならなかったのだ。配慮される声掛けに対し、極めて即物的な反応と解説、それに気付いて言葉を削ろうとして口と眼を瞑ると、私の思考は相手の思念の行く先も、私の考える道筋も、ほぼ3歩先を走って言葉にしているのが分かった。もっと鈍重であり、鎖されているはずの感覚が飛び回っている。その代わり記憶能力は喪われており2秒前に言ったことを全く覚えていないのだった。私は、ここで統合失調症神経症、そして発達障害アスペルガーの体験モデルを一瞬にして理解できたような感覚を得たのだった。またあるいは、帰宅して眠り続けた4時間の間に、ゆうに3年の時を経たかのような感覚で居たのだった。反転する光景が、あの光の波がまだ私の中で走り、口にすると一層の強さをもって混乱が私に襲いかかる。

*3:類似と目されるのは、ゼーレの人以外としての映像。人類を高次へ導く存在として自任していることの証左。あるいは『度胸星』のテッセラクト。人間の理解を超えた超高度な知的存在として作者にインスピレーションを与えたとも考えられる。次いで述べるならばあの反転した瞳は、膨大かつ流動的な情報が流入することにより碇シンジの自我が飽和した危機的な状態に陥っているとして理解されたのではないか……