懐郷のきもちよさ、のようなもの

かつて失ったと思っていた情動が映像によって呼び起こされる時、私は揺り動かされる。


耳でも舌でも肌でも鼻でもなく、私が取りつかれているのは目だ。目から入る刺激が私を支配している。それはつまるところ私が思索には向いていないことを示すのかもしれない。それでも私は視覚を重んじ、時折記憶が私の脳髄に閃くたびに、反射的に手足をばたつかせて喜ぶのである。赤子のように、無邪気に喜び、そして次の瞬間には自分が何を考えていたのかも忘れてポカンと口をあける。この繰り返し。だから思考は断片化し、途切れ途切れのまま一つのことを一貫して述べることができなかったのだ。感覚器官から運動器官に直接働きかけ、感情とともに志向が流れ去ってしまうことに何も感じていなかったわけではない。こと学生時代においては知に先走った学徒が渦巻いており、少なくとも劣等感を抱えていた私の目からはそう見えていて、彼らに何とかして追いつこう、出し抜こうとして知識を仕入れるのに躍起になっていたが、結局そこでは何も得られなんだ。なんとなればもともと持って生まれたものが違うからであり、少なくともそう感じた。彼らほどの知に対する根源的な動機がない。目につくものを反射的に知性化しようとする程の気力がない。私はと言えば劣等感に苛まれるくらいだから、思春期を過ぎても感情の整理ができず、苛立ちと無力さが野心や誇大妄想を打ち砕き続けていて、しかもそのまま「どうしようもない」という感覚だけが一つ取り残される。簡単に言ってしまえばこんなことで、それが今でも延々と繰り返されている。程度の差こそあれ、そんなものだ。
ただ、一度だけベクトルを微妙にずらされたことがあり、それが初の海外旅行と相成ったインドでのことであった。これはすでに何度か言ったような気もするが、つまり世間知らずのボンボン、いろんな意味で名実ともに貧乏人の自分を捕まえておいてボンボンもないが、そいつが好奇心だけでそんな所に行って何になるのかといえば、見事現地の人間の餌食になるのが決まっており、私は最初から最後まで騙くらかされて金と時間をむしり取られたのである。その際に500キロ超もある道のりを延々と小さな軽車に詰められ、だまくらかされた、という悔恨の念が手伝って私はずっと右斜め前の光景を眺めて己の愚かさを呪っていた。延々と考えた。どうやったら逃げられるか、どうやったらこいつから金を取り返せるか、どうやったら彼らにしっぺ返しを食らわせられるか、何で自分はここまで愚かなのか、何を直したらいいのか、これから自分はどうしてゆけばいいのか、人生終わらすことはできないか、この無駄な時間をどうやって有益に使えばいいのか、考えることは本当に有益なのか、有益とは何なのか、言葉とは何か、クソ下らないこの思考を脱することはできないのか、ほんまに途切れ途切れの思考を必死につなぎ合わせようとしていたし、私が招いたこのクソみたいな時間はそうするだけの価値しかないと思って吐きそうになるほど考え、それでも軽く一年以上何も良いことなど起きず、今でも自分の不可解さに戸惑うばかりの愚かな日々を送っているというわけだが、ともかくそれで執拗に考えるということに何となく耐性ができ、断片化された雑学同様の知を統合させるだけのクソ根性ができたような気がする、と初めて思い至ったのである。
ああ、もううんざりですか吐き気がされますか。帰っていただいて結構ですよ私は延々としゃべり続けてますんで。お気になさらずどうぞどうぞ、お帰りはBackSpaceキーか「戻る」ボタンですので。そのまま席を立ってお手洗いのドアを開け、トイレに御頭を突っ込まれてください。
それで考えることのクソ根性がついても、やはり物事を統合するだけの能力がそのままもれなくついてくるというわけでは当然なく、いずれにせよまた煩悶を続けるというわけだ。そして最近不本意ながら別の環境に移り、事例を読み合わせることが日常になったとき、この内容について自分の思考(もとい妄想)を吐きだし続けることに無理を感じ始めた。いくら知性で応えようとしても、それは群盲象を撫でるがごとく断片的なことしか言えないのがオチであって、むしろ感覚的に一見阿呆なことを言っている人の方がその実正鵠を得ているということを最近知ったのである。彼らは平気で「これは私の妄想なんですけど」、もしくはそんな断りすら入れずに「まるで〜のように感じた」と記している。それが学問に通じ得るのか、なんて思ってはみたけれども、知性で統合できるほど私はやはり賢くもないし、それに縋りついてヒィヒィ言っているよりも、まずは習うより慣れろということで妄想を口にしてみた。すると、そこから発想が生まれてくるということにはたと気づき、そのまま妄想を押し広げて後で眺めてみようという気になり俯瞰してみるとなんと大体のことが一貫しているのであって、下ばかり見て俯いてもがいていたことが全く馬鹿馬鹿しく思えるという全く笑えない話なのであるが、そうやって自分の感覚をすくいだすことと言葉にすることを並行してやっているとセルフコントロールが効かないほどナイーブになることがあり、取り乱しそうになって一人耐えて冷や汗をかいている。知性化がほどけてきたということでもあろうが、そのまま仕方ないので文字通り歯を食いしばって波が引くのをひたすら待ち、そののちに何か発見をしたように思えるという繰り返しがやはりここでも表れる。そんな時の対処法に映画を見る漫画を読むという方法つまりどこまで行っても視覚に囚われていることに変わりはないが、そういう方法を持ってかかる。そしてやっと凪いだ海を臨んで己を眺めていると、ふとした拍子に昔の感情が蘇ることがある。それがネガティヴならば当然バッドトリップへ一名様ご案内という寸法だが、かつて自分が失ったと思っていた感情を期せずして得ることができた時、私は欣喜雀躍というか、それ以前にそれをまるで赤子を抱くように愛おしげに触れる。そうやって得られた感覚はなにものにも代えがたいわが子のように思えるが、まず自分の一部であるのですぐに取り込まれていく。言葉は言葉以前の前景を持ち、そこの感覚が強固なものに思える程に、言葉は強く生まれる。揺らいでいれば前景としての世界自体が揺らぎ言葉にする前に狂気が押し寄せるのかもしれない(ここあたりは渡辺哲夫の『死と狂気』により穿ったことが書かれているような気がする)が、いずれにせよ私はそういった感情を積み重ねていくしか方法はないのだ、という諦念を抱え、しかし一つの石を積めたという事実にたとえようもない安堵をおぼえたりするのである。