止息

方法論の一つとして「止息」がある。伝統的な理解は置いておき、まず体験を記述していこう。朝が肝心だとはこれまでに何度か言ってきた。生活における最も基本的な時間単位は一日だろう。どのような反論があってもいい。まずもって、何事かを始める際に注意しなければいけないのは、朝なのだ。朝に行動と思考のベクトルが定まると言ってもいいだろう。だからこそ朝に色々な方法で備えてみている。かならずの喫煙であったり、住み慣れた生活空間で目を瞑りながらの行動であったり、コーヒーそして用便をセットにしてみたり。思考錯誤ではある。
ここで、息を止めるという方法が何かしらの有用性を備えているのではないか、と感じたのだった。ゆっくりと息をしながら、そして、吐く。しばらく息をしなくても留まれる程度に息を吸い、腹に力を入れて、喉からせり上げる圧迫を強めながら、体幹を中心に力を込めていく。会陰、丹田、延髄、頭頂、眉間、全て中心に凝縮され、そして僅かに漂っている感情が激越するかのように炙り上げ、そしてそれを同等の力で抑えつける。緊満した状態に限界を感じた時、少しずつ空気を抜いていく。しかし神経の尖りは緩めてはならない。


このところ、神経をとがらせるというより、凝縮された体験を味わうために手を尽くしているようにも思える。微かに味わわれるしかない感情を激しく増幅して存在を脅かすようにも感じさせてみたり、あるいは通常なら途切れてしまう集中力が延々と続き、一種のトランス状態を味わわせてみたり。それが良いのだ。