他者との出会い、主体の生起

上記とは別件。内田樹レヴィナスと愛の現象学』p.70 l.4-12

レヴィナスが「倫理」と呼ぶのは、この「曝露のモード」を選び取る、と言う決断のことである。いや「選び取る」という言い方はすでに適切ではない。「倫理」に先立って他動詞的な能作を行い得る「主体」が存在するわけではないからだ。「主体」が判断を下すのではない。決断が下された後になって、そのような行為を起動させた「始点」が事後的に確定され、それを人は「主体」と名づけるのである。だから前のパラグラフの表現も修正が必要かもしれない。「私」が「他者に曝露される」というより、「他者に曝露されえるもの」、それこそが「私」なのである。「私」と「他者」は同時的に生起するのであって、「私」に先んじて「他者」がいるのでも、「他者」に先んじて「私」がいるわけでもない。

どっちなんだ。
決断は他者によってなされるものでしょ?それなら他者が先んじているような気もするが…他者と私を置き換えても同様のことが成立するから、どっちがどっちと言うわけではなく結局“同時的に”ということなのか*1?それって実際のところどうなんですか。

哲学の抽象的な考え方、と言うのは好きだが、それは実際のところどうなんですかって聞いてちゃんと誰か答えてほしい。そういう関係の方が私の周りにはおらん。

*1:訂正…「他者」は「他なるもの」とは違うそうだ。絶対的な「他者」、その意図すら理解できない/人間とはまったく次元の違う、神みたいなものだと思ったのだけど。じゃあ「同時的」ってなんだよ。ますます分からん。