哲学とマイク・タイソンの問い

マイク・タイソンは服役中に哲学書を読み漁ったと聞いた。そして彼の諸哲学に対しての答えは、「そんなことあたりまえじゃないか」というものだったらしい(要出典)。この感覚に対して何を思うか。人の生、日常の当り前のことに対して知的な側面から徹底的に論ぜんとする哲学、それが出しうる答えとは、もちろん人の生、日常の当り前についての仕組みである。「いかに生きるべきか」というハウツーものではない。むしろ私が思うに「いかに捉えるべきか」というものであろう。さまざまな視点から数限りない論が提出され、哲学の森は栄える。生い生い茂る。しかし、諸哲学は人間が書いたものばかりであり、非‐人間、すなわち字義通りの意味で、キリンやチュパカブラトリトンやグレートワンネスによって書かれたものを私たちは知らない。あくまで人間の手による人間についての考察であり、そこには自然と限界がある。感受性が強ければ通りいっぺんのことは思いめぐらすに違いないし、どんな高名な、あるいは新進気鋭の哲学者の手によるものであってもそれは大方“既視感”を覚えるものであっても何ら不思議ではない。だからそこに書かれていることが当たり前のように思われても、また当然のことなのである。とくにプロスポーツ選手ともなると、肉体を使うだけでなく精神へのアクセスが必要にもなりうる。何となれば肉体を統制するのは運動神経や技術のみにあらず、最も肝要なのは精神の統制だからだ。怠慢、恐怖、暴発、それこそ様々な己の体をほしいままにする本能然とした奴らの手綱を握りこむには相応の自覚と理解が必要であり、いかに技術が優れていようと“己”が“己”に牙を向けばすべてがぱあである。マイク・タイソンのようなプロともなれば大抵のことは考えていて当然だとも考えられる。つまり、彼は当たり前のことに対し、「当り前だね」と返しているに過ぎない。
おそらくタイソンの、この哲学に対する反発は抽象的思考を意識しつつもその価値を疑っている者に称揚されたことだろう。やはりそうだ、哲学書なんて必要ないんだ、彼らは当たり前のことに対して当たり前のことしか言えないバカの集まりなんだ、と。ではそう考える者に対してもう一度問い直そう。あなたたちはこれほどまでに自分の感性を突き詰め、言葉にすることができるのか?できないはずである。できるのであれば、この世に○○哲学というようなものは、そのような名をつけられることなく市井(いちいじゃないよ!!) の人々によって徹底的に論じつくされているだろう。己の感性、観点を言葉にするということはそれ自体が至難の業である。それを論理的に一貫したものとして築き上げるのは、それだけの力を持った人だからこそできたことである。しかし、なおも反論することであろう。でもそんな役に立たないことをやってるなんて、それはバカの証拠じゃないのか?と。まず聞きたい。ではそんなバカな本をわざわざ服役中に読んだマイク・タイソンをあなたはバカだと思うのか、と。マイク・タイソン程の人間がなぜ哲学書を読んだと思うのか、と(これは先述した)。それでもマイク・タイソンをバカだとし、哲学を無益だとする奇特な人々にはこう聞きたい。ではあなた自身が考えること自体やめてみてはどうか、と。哲学は常にそういった考えることの延長線上にあるのではないか。それでもなお、当り前のことしか言えないことの罪をあげつらう人々には、人間が人間以上のことを言えないのは当然ではないか、それが不満ならば神を信じればいいのではないか?と聞こう。現にそうやって、宗教に入っていった人間を私は知っている。しかしそういった人間にも私は聞こう。自分以上の存在、神というものを追い求め、そして、私にそれを押しつけようとする輩に対して言おう。神なんていないんだよ、少なくとも君のいう神なんてものを君は見たのかい?…………ただひたすら考え続けることに罪はないのだ。行動なき哲学であれ、それの罪を罵る権利など私たちにはない。もちろん哲学の探求は学術的価値を生みはするが、それは本来の目的ではない。哲学が長い間人の歴史の中で続けられ、多くの人々によってなされ続けるのは、単に「あたりまえだ」ということで切り捨てられるものではない。考えることは己を知り続けることである。それは、朝起き、目を覚まし、食事をとるように、ただ人間の営為の一つとしてなされ続けるもの、つまりあたりまえのことなのである。もちろん答えなどない。あるわけがない。*1

*1:後半になって論理が適当になってるのはご愛嬌です。