宮本大人氏の「ポニョ」評について

少しナイーブなことを言ってみよう。

宮本大人氏の「ポニョ」評を読んで久々に泣きそうになった。
彼の言葉には、直観的な言い方をすれば、未来へ向かおうとする肯定的な意思がある。それは文章を読む者にとっては心地よいことであり、また救いでもある。本当に目の前にあるものをいとおしく思い、好意的に評価したくなるという、いわば「抱きしめたくなる」ような感覚すら覚えさせる。それは彼の論理展開だけがそうさせているのではないだろう。あくまで読者、しかも顔の見えない不特定多数の人々に対し敬意を払っているということ――それは優しい言葉づかい、敬語を使うなどのごくごく基本的なことではあるのだけど、これを欠いて持論を開放的に/内閉的に(いずれの場合でも)進めるような文章を読む際には、ある程度の「読もう」という意思が必要になる。生硬な文章ではまずもって「読もう」という気が起こらない。
自分の感覚に基づき、目の前の現象に対して適切に己の言葉を用いてみせる、その論理は先にあげたオプティミスティックな論調が陥りがちな無責任さを回避することにも成功している。自分にとって何が大切であり何をもって言葉にするか、これを明確に意識して書くことは作品に対して評論するときに初歩的な技術なのだろうと思われる。これが説得力を持たせて語るということなのだろう、と久しぶりに実感した次第だ。

また、宮本氏は以下のようなことを言っている。

 あと、ここからは、自分が読ませてもらった範囲の感想や批評についての付け足し的な感想ですが、「批評」を、算数ドリルの答え合わせのような、どこかに確たる「正解」があって、自分はそれを知っているかのように作品を「採点」することだと思っている人が多すぎやしないでしょうか。みんなが知っているような「正解」とは違う、自分には思いもよらなかったような新しい答え方を、作品の中に発見する営みのことを批評と呼んだ方が、僕はいいと思います。いきなり絵コンテ描き始めるからシナリオがなってないだとか、説明が足りないだとか、親を下の名前で呼ぶのはどうかとか、あの母親の運転は乱暴だとか、あんたが教師で宮崎駿が生徒かよって思ってしまいます。そんな教師の示す「正解」通りのアニメーションなんか、宮崎駿は見たくないわけですよ。俺だって、そんな、劇場に金払って行ったら教科書読まされた、みたいなもん、見たくないっす。
(太字は引用者による)


宮本大人のミヤモメモ 『どきどきのような!ふしぎのような!−「崖の上のポニョ」について−』 http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/

激しく同意。自分の判断基準を他人に押しつけるということのあさましさに時として出会うことがある。特に否定的な論のときに出会う。自身の論を成立させるときに、ある程度の“強さ”は書き手にとって必要になる、というのは分かる。しかし、ネットという自分自身の顔を晒さなくてもいいというアノニマスな状況は人の神経症的な一面を周囲に向かって増幅させる。それゆえに自身が否定されることに過剰に反応し、または自身を絶対化したがるあるいは肯定的な評価を受けたがるのだが、読む側にとってはそんなのはいい迷惑なのである。ここには、私が前々から妄言のなかでくだくだと言っていることに通じるものがある、と感じる。それは日本風に言うと“謙虚さ”である。人さまに見てもらう、という感覚だと言ってもいいかもしれない。文章を読んでもらう際に自分が居丈高になる権利なんて、あるようで実はどこにもない。もちろん、宮本氏はそういう意味で言っているのではないだろう。
しかし彼の「批評」に対するあり方は、最近かじりかじりしているレヴィナスの言い方によく似ている、と思う。他者という言表不可能なもの―恐らくそれは自分を取り巻く流動的なものすべてを指しているのかもしれない―に対して、丸ごと把握しようとするのではなく、我々はそれに向かっていく志向性しかない(だったか…)というのだ。レヴィナスは書物を例に挙げているが、映画ですらそうだろう。人の数だけ「読み」がある。そこには真の読みなどというものはない。ただ律法を前にして真摯に新しい読みを提示していく学者たちのように、常に開かれた知を提供する。内田樹氏はこれにレヴィナス自身の学知へのあくなき欲求があったと説明するが、まさに、映画がエンタテインメントとして提供されていることからも、さらに新しい見方を提供する、少なくともそう考える、ということは非常に私たちにとって愉しいことではないだろうか。

ちなみにまだ「ポニョ」は観に行っていない。賛否両論真っ二つの様相を呈しているが、趨勢、論点は宮本大人氏のなかに大方書かれている(はず)ので一読する価値はある。氏の文章を紹介していた夏目房之介氏にも感謝。