「空白≒幸福」について

思いついたことばと心情が相容れないものであることに気づくのは、もっと時間が過ぎてからでしかないのだ。
空白だ、と思うような、凪いだ時間がある。それは私にとって、ただ一つの幸福な時間なのかもしれない。何を託されているわけでもない。思うままに思考を弄ぶことを許された時。
しかし、そのような珍しいひと時が、何の前触れもなく訪れた訳ではないことに、そろそろ注意しておく必要がある。何も知らない時代には、おそらくそのようなことは必要ないのだ。瑞々しい感性とやらを涵養すればよろしい。それに付き合っていくだけでも大変なのだから。ただ何度も何度も自らの体験を繰り返していくうちに、以前と同じ感覚を味わったような思いにとらわれることが、時々訪れるようになってきた。今まで、なにも気にしてこなかったようなものだったのに、それが以前の自分の体験と対処の仕方を参照するようになってきている。こんな感覚を抱いたことがある、あのときはこういう風に振る舞っていたな、云々。過去の体験をなぞり、そして現在の体験を分析検証しているような態度を取るようになってきたのだ。
内観、内省などといまさら言うものでもないが、このような、不意に訪れたように見える感覚は、実は、私に何か起きた後の相対的な無風状態を示していることを、一応意識に上せておいてもいいような気がするのだ、日頃から感情的な物言いや態度は慎みたいと思っているがために、周囲の人間の感情的な言動や自らの揺れ動きには、次第次第に敏感になっているようだ。ついこないだも、どうしようもないクレームに持ち札を出し切って、それでもなお追撃の手を休めることのない相手に罵倒されまくったのだった。ああいう手合いは、私にとって天敵なのだ。こちらで防戦の手が尽きたとしても、防壁となることを止めてはならない。感情的な相手に対して感情的になってはならない。例えば、包丁を持ちだして「あんたのこと刺すよ、今刺すよ、私も死ぬよ、全部あんたのせいだからね、みんなに迷惑かけるのはあんたなんだからね、」と言い詰められるような相手に、私は答えるすべを持っていなかったのであって。ああ思い出すのもいやだ。
そんなことがあった後日に、今がある。
思いに囚われている時はまだましだ。自分でその思いにとらわれることが、罪を償う唯一の方法だとばかりに、免罪符気取りで他のことからケツまくっていればいいのだから。しかしその生々しさから距離を置いた時、私はその状態を的確に捉えることにことごとく失敗してきたような気がしてならない。いまこの一瞬を味わいきればいい、などという台詞は吐くわけにもいかなくなってきたのだ。これまで起きたことに、ただ無視を決め込んでいるかもしれないのだから。
もっと視野を広く持とうとしなければ、今現在のことさえも良く分からずに終わってしまう。
そうせねば、思いついたことばと心情が相容れないものであったことに気づくのに、多大な時間を費やすことになってしまうのだ。
現在とは最も非言語的な体験であると誰か言っただろうか。そんな言葉はエピグラムにもなりはしない。せいぜいあの悪名高い「免罪符」にしかならないだろう。分からないということに匙を投げるのではなくて、慎重に丁寧に、仮の理解でもいいから示しておく必要ぐらいは、やっぱり残されているのである。