伝えること

当座にて、研究報告を定期的に作成しようという話が持ち上がったのは約1年前だった。何も知らず私も狩り出されてはいたものの、各人がどこまでの意欲を持っているかなど毛ほども知らず、それゆえに限りなく控えめに関わることにした。最近になって気付くのは、どのような時でも「誰にでも分かるように書くことが大事だ」と結句に述べていた、ということだった。
何が言いたいのか。
誰にでも分かるように書くこと。これは簡単なようで、難しい。自らの務めることが専門的であるほど、そこに依った物言いになる嫌いがあるのは多くの方が知っていることだろう。私もまた、それについて何度も何度も異口同音に諭されてきた。
しかし、これはしばしばなおざりにされることが多い。専門的知識を心ゆくまでに語れば事が済むと思っている者は案外多い。あるいは「論理的」であることが最も大事だと言って、その実独り善がりの見るに堪えない文章を書いてくる者もいる。あるいは、文章を書くことを苦手として、初めこそ気を入れて書くのに、途中から思いつくものをろくにつなぎもせずに思い散らしたものをそのまま言葉にして、それで終わりとするものも多い。ここには、物事を語る、文章を書き留めるということに並々ならぬ労力が必要とされること、そしてこれらの行為がある種の個人的な葛藤を持ちこみやすいものであることを示しているとは言えないだろうか。
たった一言で済むようなことを、何十倍にもして初めて伝わることもある。それは徒労でもあるが、仕方のないことでもあるのだ。分からない相手が悪いのではない。むしろ、相手に分からないままにさせるこちら側に問題があるのだ。説明する、ということは、自らの優越感を満たす行為ではない。相手が何を分かっていないのかを汲んで、どのような表現であれば伝達が可能かを考慮する。そして思考錯誤を重ねてでも伝えたいことを伝えるのがこちらの望ましい姿ではないのか。
何が悲しくて、自らを高みにおいて自己満足に耽らねばならないのか。そんなものは物言わぬ石ころを相手にでもしていればいいではないか。繰り返し感じるのは、疎通を困難とさせる対人関係のほぐすことの重要さである。
むろん、こちらは最大限の手持ちを持って臨まねばならない。明確に、簡潔に、平易に、的確に伝えること。そのための労力を惜しむことがあってはなるまい。それでもなお伝達困難だと感じるとき、さらに相手の欲求さえも汲み取ってそれに沿う伝え方を講じることが求められる。自分のできないことにまで突き進むほどの腹を持って臨むことをよしとしておきたいものである。
撃ちてし已まん、と戦時中に言われていたが、それほど勇猛でなくともよい。被弾してもなお正気を保ち続けるほど、苦悩に対して自覚的であるほうがよかろう。または大日如来の例え。真言を語る大日如来地蔵菩薩に身を変え、人の言葉でまた語ると言う。いかなる場においても伝えることに自慰するのではなく、まずもって人が為に言葉を放つということを、知ること。難しいことではあるが、臨むべきことのひとつだろう。
まるで自分が唯一正しくて、周りはそれに従わぬ馬鹿だらけだとか、敵だらけだとか、そういった、自らの弱さを弱さとして認めることができぬ者にはまた、この考えも届かぬものではある。残念なことに、苦しみを背負い切れずに泣き叫んで世を恨む者も多い。仕方のないことではあるが、それでもなお、自覚的であることを望むことのできる者は、彼らに対してもまた、眼差しと言葉を持ちあわせてなお、その場から離れてはならないのではないか。