「不所持」の矜持・正当化という気持ち悪さ

さあ書こう、今回は「持たない」ことを信条とした腐った心根の野郎の口から漾う腐臭から始まる独白だ。毒吐いてるね。

断片が去来する。そしてそれは形を成さず、霧散してゆく。何かができる、という期待が沸き立つと同時に、何もできない、という諦念が襲う。人の創作活動に触れる時、それは反射的に訪れる。自分の中の未熟にして形を持たず羊水の中で長い時を過ごし、陽の目を見ることなく内にあることをいつしか良しとするようになってしまった愚かな塊である。その肉塊が、他人の中から見事形を持って現出したものに対して反応するのだ。悲しいほどに。彼らの持つ力は特定のものごとに対する才というより、それを形にしようとする意志であり、能力であるといえる。
「持たない」ということに対する強烈な同一視、それは私が思春期に得た最も大きな精神であった。それは劣等感、疎外感、無根拠な自己の特別視、破滅願望、幼児的全能感などさまざまな側面を助長することになった。我独り高し、とする姿勢にはこのような由来がある。自身から湧き出るものに対して、他者の介入を恐れるのもこれが為である。自分の分身を人に謗られるのではないか、という、脆く尊大な自意識のなせる業である。
匿名で自分の思いの丈をぶちまけ、しかし不特定多数の人の目を気にする、何とも滑稽で哀れな話であるが、そうやって私はこの電脳上でその場を点々としてきた。形にならぬものを形にしようとして、人にそれを見せようとしたこともあった。しかし、それは達成することはならず、燃え上がった自意識は半端に燻ぶり、行き場を失った。日々の泡に呑み込まれ、それを理由として創作活動への興味をそらしていった。しかしまた、一つ事に没頭することのできない忌まわしい性格が、ふたたび創作活動へと触手を伸ばす。燻ぶっていたものに火をくべられる。日に日にわたくしの裡にある無形の芽は変化してゆくが、それでもなお、今はそれに水をやることもかなわない。
己が「持たざるもの」であることが、強烈に意識される。アンダインに我が魂を捧げようか。おそらくその勇すらも私は持ち合わせていない。人に対する怯えと憎悪が綯い交ぜになったものを必死に隠そうとし、私は寛容の面を被って微笑む。ぎこちなく歪み、罅が入る泥の面である。欲望すらも腐ってゆく。


そしてお次。某団体の入信者である友人のことを己を誑かす奴だと思いこんで怒り心頭に達するもしかし紳士的に対応しようとしてその実全然うまくいっていない男のきゃ腐れの呻き声だ。耳にヘルペスができるぜ。

ここまでに己の臭みを知りながら、尚「勝利する」という言葉を口にすることができようか。己の一部を否定するという所業にも思え、また、極端に前向きなこのスローガンは、私にとって白々しい響きしか持たない。人間は進化の先に極楽土を見る、という考えは、きわめて眉唾ものである。確かによりよく生きようとする“自己実現”傾向はあるにせよ、「正しき」道から外れた者を、自分たちより不幸であり、退転は悲しきことだというその考えが傲慢にしか聞こえない。己の側面を「勝利する」などという言葉で解消の対象にしてしまってよいのだろうか。人は清濁あってこその存在である。
その友人にだけでいい。私は私の友人に言いたい。君は法華経を神秘化しているのではないか、と。それはキリスト教の唯だ一つなる神への信仰よりもたちが悪い。己と教えを同一視するからだ。得られないものを目標とすることは誰だってできるのだ。そういったものに思いを馳せ、人は目標を作って生きてゆく。それは分かる。しかし、その目標はどこまで行こうと目標でしかなく、究極の真実であるという証左など決してどこにもないのだ。もちろんこの不確かさを自覚して、それでも信心を続けているのならば、私は何も言わない。しかし君の言葉はどこかしら、その経典が唯一に至高の教えであるということをよすがにしている節がある。そのような考えが私に浸透すると思うか?今の私の、私自身への教えは「己を疑え、己を貶めよ、今一度根本から問い直せ」である。もし、この考えが君たちの方針に則っているというのであれば、すなわち、こういった自己批判の考えは君が信じている教えでなくとも実践され得る、ということでもある。団体としては魅力的なほどに強大ではあるが、横の繋がりによって研鑽もされようが、しかし、私には君たちと歩みをともにする必然性がない、ということを来年の初めに、改めて伝えようと思う。


また、さらに己の信念を挫く将来の自身へも警告しておかねばならない。これは自己嗜虐の理由としてはならない。己の腐った部分を認めるのはよいが、それを理由とすることは決して許さない。己を腐すことにこれから情熱を傾けるのであれば、それは寧ろ人を燃やし尽くすだけの力に注いでみてはどうか。この相反する性格に折り合いをつけることが、先10年の課題である。