羊水、パンダ、ある違和(いは)

敢えて言葉を凝縮させてみよう、というのが今回の狙いというかワンアイデアであるが、はたして凝縮、とはどのようにやるのだろうか。まず単純に思いつくのは熟語、というやつであり、これで事象や意味を端的に表現することができるし、しかも知的な印象を与えることができて一石二鳥だ!!ヤッター!……などと本気で思っているのは、まずもって「知に淫し」ている奴だと言ってしまってもいいだろう。もはやこんな抽象的で太古から言い古されてきたようなことを本気で考えているのは、ものすごい距離の周回を「一回り」してきた人か、それともスタート地点で難しそうな言葉の連なりに魅力を感じる性的倒錯者か、それとも有名どころをミーハーでちょっとかじって「一回り」してきたかのように錯覚しているような自称オタクくらいなものではないか。
ともあれ熟語―言いかえると用語とかそんな類のもの―とは「恐らく」、物事、事象の数え切れないほどの性質やいわく言い難い側面を端的に切り取るための手段であり、それは語る者のスタンス、イデオロギーに基づいた、目的的なものであるということができる。すなわち大半の小難しそうな言葉自体には何ら深遠な意味など含まれていないし、それを使っている者の有能さが溢れだすようなものでもない。少し話がずれそうになっているが、それを使う者の有能さ、などというものは用語の難解さなどではない。これまた本当に誰でも知っていることではあるが――、一見難しそうな文章からはその人がどれだけ複雑なことを考えているかが受け取られるような思いがするが、ちょっと待てと。実は単純なことを見落としていないか?その人がとにかくカラフルで、パステルカラーの服を得意げに着ているからといって、本当にあなたはお洒落だというのか?言葉というものは一見視覚的には映像よりも捉え難いが(少なくとも私は映像の方が分かりやすい、と信じ「こんで」いる)、実際のその倒錯の度合いは、あまりすぐには判断できないからこそ、非常に混沌とした部分が多く、読み手、果てには書き手にすら勘違いされた言葉であふれているという事実からもわかることだろう。「35才で羊水腐る」とか「パンダを手放しで歓迎」とか、そういった単純な言葉の違和と同様に、様々な場所に様々にずれた言葉があふれているのだ。
そして、これに一番気づけないのは、言葉に対して生半可な信頼を寄せている者―新聞は全て正しい、サルトルとかニーチェとかかっこいい、本を一杯持っている(読んでいる、ではない。身にも付かないのにアクセサリー気分で本を持っている奴。たとえば私)、俺は他の人間とは違うんだと無批判に信じている者であり、最も手に負えないのは、そうやって後ろ指を差されることの可能性について全く思いを馳せたこともない者、自覚のない奴だということだ。少しぐらい疑ってかかれよ、という話だ。
そして、いま言っていることすらも一貫性のない単なる戯言だと見抜けないならば、このくだくだしい妄言を目に入れることすら時間の無駄だと、気づいているだろうか。これは単なる虚無的な相対主義ではない。