羽ばたけ、溝へ!!

最早そんなことはどうでもいい、文才がないことなど疾うに分かり切っている、云々。大抵この愚にもつかない吐き溜めのような言葉を連ねるときにはワンセンテンスがわき上がる。物語ではないのだ。契機となる情念とも呼べないような感情の切れ端を頼りに食い繋いでいくかのように、屁理屈を捏ねくり回してハアハア、というわけで。文章を書く才能がほしい、と思ってもここまで来たら何をなすことがあろうか。世間知らずの餓鬼が批評家まがいのことをやってみる。他人よりも言葉に対して虚栄心が強いだけで、それだけで書いてみる文章は全くもって内容のないものばかり。結局半年も置いておけばそれがどんなに中身も体裁もないものであるかなんて一発で分かってしまう。
昔は嘯いたものだ。モーツァルトになれないのならば差し詰め私はサリエリだ、と。噴飯ものである。どの口がそんなことを言ったんだ。そんなことばかり考えていたのか。人から抜きんでた才能ばかりに憧れて、いつしかお前は年をとり、自分の足元が道ならぬ道に踏み込んでいる、いやさどこにも行けないくらいに自分の両足が腐り果ててしまっているのをいまだに気づかないでいる。早く堅気になれ、早く現実がどれだけ悲惨なことになっているか気づけ、ともう一人の私は空想世界へアブダクトされているアナザエゴに警告を発しているのだが、どうやらあっちの自分はこれを子守唄か何かだと勘違いしているらしい。
――痛みに慣れてしまっては、そこにはマゾヒストとしての悦びはあり得ないのだ。惰性の痛みは痛みなどではない。痛みは認識されるからこそ快感ともなり得るのであり、いつの間にか鎧のようにぶ厚くなった皮膚に鞭打ったところで何の効果も得られはしないのだ。まるで象が尻尾で虻や蠅を追い払っているかのようだろう?――
だから常々私は、地獄を見ろ、と言い聞かせているのだ。「何で地獄なんて言うの?」と親切にも辛酸を私よりも恐らく舐め続けてきた彼は私の呟く言葉の深刻さに非難を投げかけて呉れるのだけども、どこまでも徹底できない私にとって地獄とは逆・憧れの地ということであり、そこに向かうことはあっても決してたどり着けないであろうからこそ、地獄・地獄・地獄と知人が眉を顰めるほどに呟いてみせるという、そういう腹積もりがあってのことなのだ。勿論そんなことを言っても彼は、口を尖らせたままではいるのだろうが。


今回分かったこと。
①ワンセンテンスがカギ。
②勘違いのマゾヒスト。
③地獄は逆・憧れの場所。
そして次回分かること。
それはまだ………混沌の中。
それが………ドロヘドロ